講談の源流

 土曜の心づもりでは、今日は「ひょっこり左門逮捕ノート」の続きを書く予定だったのだが、読み返してみてあまりに馬鹿馬鹿しいので、よすことにした。馬鹿馬鹿しいことを書くにはその馬鹿馬鹿しさにめげないある種のテンションが必要で、今日はそれがない。

 代わりに何を書きたいということもないのだが、まあ、相変わらず読んでいる水滸伝の話でも書いてみる。

 水滸伝は小説だが(現代日本で言う小説とは随分と異なる)、文章は講釈を文字に写し取ったもの、という体裁を取っている。例えば、各巻の終わりはこんな具合だ。武松が近所の人達の目の前で兄嫁を惨殺。さらにその愛人の首も取り、二人の間を取り持った婆を捕らえる。兄の仇を討ったのだ、と宣言して――。

 さて従卒に命じて、近所の人たちを二階からおりて来させ、かのばばを前にひきすえます。武松、刀を持ったまま、二つの首をぶらさげて、改めて近所の人たちに向かい、
「もうひとこと、四軒のご近所のみなさま方に申し上げたいことがございます。」
 四軒の近所の人たち、手を組みあわせてかしこまり、みな一同に、
「組頭さん、どうぞいって下さい。われわれ万事仰せに従います。」
 武松、その何句をいい出しましたばかりに、ここに分かるる話の筋筋、名は千古に標(しる)くして、声は万年に播(し)き、はては英雄は相聚(あいあつ)まりて山寨に満ち、好漢は心を同じくして水あ(さんずいに圭)に赴く。げにげに古今の壮士は英雄を談じ、猛烈の強人は義忠に仗(よ)る。はてさて、武松、四軒の近所の人たちに向かい、いかなる言葉をいい出だしますにや。まずは次回の講釈にて。

(「水滸伝 三」より巻の二十六、吉川幸次郎・清水茂訳、岩波文庫

 この「○○○であるばかりに、ここに分かるる話の筋筋。――はてさて、○○○○にや。まずは次回の講釈にて。」というのが、巻の終わりの1つのパターンになっている。

 これは全く我が国の続き物の講釈(講談)の切り方と同じだ。講釈は、しばしば長い話を何十日にも分けて語る。講釈師としては明日も客に来てもらいたいから、最後のところを盛り上げるだけ盛り上げておいて、謎をかけるようにして、ばさっと終わる。客は続きが気になるものだから、次の日も来てしまう――ということだったようだ(残念ながら講釈の定席が今はほとんどないので、続き物はやりにくく、こうした切り方もしにくいようだが)。

 不思議なのは、中国の講釈も、日本の講釈も、ほとんど同じ切り方をしていることだ。もちろん、翻訳の吉川幸次郎・清水茂が日本の講釈の語り口調を真似て訳したせいもあるだろう。しかし、翻訳文を読む限り、無理矢理似せたというふうには思えない。中国の講釈(水滸伝)も、日本の講釈も似たような語り口を持っているのだと思う。

 高島俊男の「水滸伝の世界」によれば、水滸伝が読み物として成立したのは明の時代、十六世紀前半あたりらしい。日本では戦国時代である。中国の講釈はそのずっと前からあり、宋の時代――日本で言うなら、平安時代から鎌倉時代の頃――にはすでに成立していた。水滸伝は中国の講釈の人気テーマだったらしい。

 一方、日本の講釈は太平記なんかを語る大道芸に始まり、江戸時代中期から後期にかえて今のような形になったという。

 成立した時代も違えば、もちろん、海を隔てた地理的障壁もある。講釈師が日中を往き来したとは思えないし(禅僧のように講釈師が来日して話術を伝えたのなら楽しいが)、どうやって語り口の伝播があったのだろうか。それとも、土地は違っても、講釈師の考えること、語る内容は自然と同じになる、ということなのか。

 1つ考えられるとしたら、書物として入ってきた水滸伝が日本の講釈師の語り口調に影響を与えた、という可能性だ。日本で水滸伝の最初の翻訳が出たのが、十八世紀中頃。十九世紀に入った頃には、滝沢馬琴葛飾北斎が共同して挿絵入り水滸伝を出したりしている。時期的には講釈の形が整う頃と並行している。

 くだいた書き方をすると、水滸伝を読んだ講釈師が「○○○であるばかりに、ここに分かるる話の筋筋。――はてさて、○○○○にや。まずは次回の講釈にて。」なんていう言い回しを、「お。これ、使える」といただいた、なんてことがあったのかもしれない。もしそうなら、水滸伝は日本の講釈の源流のひとつということになる。

 ――のだが、げにげに例によっての思いつき。何の証拠もありませぬ。

水滸伝―完訳 (3) (岩波文庫)

水滸伝―完訳 (3) (岩波文庫)

水滸伝の世界 (ちくま文庫)

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