勢いで付く言葉

「その手は桑名の焼き蛤」の類の言い回しを何と呼ぶのだろうか。慣用句、常套句といえばそうなのだが、もう少し細かい呼び名がありそうにも思う。もちろん、駄洒落ではない。洒落を言いなしゃれのような幼稚な言葉遊びと一緒にしてはいけない。

 駄洒落が音と意味の両方のつじつまを合わせようとするのに対して(それが下品なのだ)、「その手は桑名の焼き蛤」に意味のつながりはない。「その手は食わない」と「桑名の焼き蛤」が「くわな」の音で結びついただけであり、勢いで言いっぱなしである。その言いっぱなしの潔さがわたしは好きだ。

 この日記でよく使う言い回しに、「〜せねばの娘」というのがある。元はボサノバの名曲「イパネマの娘」で、おそらく、日本のジャズマン達がそれを「(どこそこに)イカネバの娘」「(飯を)食わねばの娘」「(女を)コマサネバの娘」などと変形していったのだと思う。ジャズ界ではもはや原型をとどめないくらい激しく変貌してしまっているそうで、「見たかったの娘」とか、音のつながりすら失ったの娘らしい。

 例の「男はつらいよ」の「結構毛だらけ猫灰だらけ」というのも、テキ屋の口上として昔からあるらしい。渥美清はコメディアンになる前、実際にテキ屋をやっていたというから、そのとき覚えたのだろうか。

 寅さんといえば、「あ〜あ、見上げたもんだよ屋根屋のフンドシ」というのも常套句で、「結構毛だらけ猫灰だらけ」が「け」「だらけ」という音つながりであるのに対して、こっちは意味のつながりである(「おまえ」-「見上げたもんだよ」-「屋根屋のフンドシ」)。これらは音だけのつながり、意味だけのつながりだから勢いとグルーブ感が出るのだと思う。音と意味の両方を狙う駄洒落にグルーブ感はない。

 さらにどーんと遡ると、和歌の枕詞というのも、同じ類ではないか。「青丹よし奈良の都は咲く花の薫ふがごとく今盛りなり」とか、「たらちねの母が呼ぶ名を申さめど道行く人を誰れと知りてか」なんていうのは、「見上げたもんだよ屋根屋のフンドシ」と形式は変わらない(「たらちね」-「母」-「呼ぶ名を申さめど」)。「母は乳垂れるよなあ」「垂れるねえ」という認識が決まり文句となり、「母と来れば垂乳根」という形式ができあがったのだと思う。

 和歌はもちろん歌だから、枕詞でグルーブ感を出すのだろう。繰り返すが、意味だけのつながりだからグルーブ感が出るのであって、意味と音の両方を狙って「君がため春の野に出でし狩衣のコーディネートはこーでねーと」ではやはりダメダメである。