自転車と無力感

 昨日の続き――ということでもなくて、まあ、白状すれば、毎日こうやって書いているが、何について書くかなんて実はどうでもいいのである。とりあえず他に書くこともないから、自転車についてでも書くか、てなものだ。ああ、槍投げなわたし。申し訳ない。

 今、自転車は持っていない。駅に近いところに住んでいるので実用上の必要をあまり感じないせいもあるし、坂の多い土地だから自転車で走り回るのがなかなかシンドいせいもある。

 ガキの時分の記憶で書くのだが、自転車で坂を上るというのはシンドいとともに、どこか意地になるところがあったように思う。うおおおお、と、今となっては遠い存在となってしまった「挑む」「やる気」というものが当時はまだあって、何だ坂こんな坂とガシガシ上ったものだ。そうして、あっという間に体力を使い果たし、道端にへたりこむのが常だった。「いかんともしがたい」という、その後のわたしの人生の通奏低音となる感覚を思い知らされたのは、あの自転車しゃかりきへたりこみ時代であったかもしれない。

 小学時代か中学時代か、変速機のある自転車に乗っていた時期もある。あれはなかなか楽しいものだが、坂を上る役に立ったかというとよくわからない。ローギヤにすると確かに足は楽になるのだが、うおおおお、とただただ無闇に足を回転するばかりで大して前へは進まなかった覚えがある。あの、うおおおお、だが、ちっとも進まない感じもいかんともしがたい。チェーンが外れたのに、気づかず必死に漕いでいる感覚に近い。

 何が言いたいかというと、自転車は人生についていろいろ教えてくれた、とそういうことである。おれの人生ローギヤだ。