漢語・外来語をひらがなにする心

 少し前に「かんぽの宿」や「ゆうちょ銀行」というひらがな表記について書いた(id:yinamoto:20090206)。幼稚だからヤメテクレヨ、という話である。

 郵政方面には、他にもこの手のひらがな表記があった。

ゆうぽうと

 これまた幼稚だ。何をお子ちゃまぶっているのか、「いい大人」という言葉をあなたがたは知らんのか、エエイ黴菌が伝染る寄るな寄るな、と思うのである。

 原語は何だろう。「You Port」か何か、意味不明の英語名称をひらがな化したのだろうか(「郵」と「you」を、単なる気分でひっかけたかったのかもしれない)。

 この手の、外来語をひらがな表記する手法も時折見かける。「ほーむぺーじ」とか、「ばーむくーへん」とか、まあ、目先を変える効果はあるかもしれないが、やはり、お子ちゃまっぽい。気恥ずかしさはぬぐえない(本人より見る側が気恥ずかしさを覚える)。

 一般に漢語・外来語をひらがな表記すると、幼稚に見える(その幼稚さを“かわいい”と捉えているのだろうが)。しかし、不思議なことに、和語をひらがな表記してもさほど幼稚に見えない。今日はこのことを実験してみたい。

 源氏物語の一節をひらがな表記してみよう――というか、源氏物語は元々ひらがな表記だが。

かのすまは、むかしこそひとのすみかなどもありけれ、いまはいとさとばなれ、こころすごくて、あまのいえだにまれになむとききたまへど、ひとしげく、ひたたけたらむすまひは、いとほんいなかるべし。

 全文ひらがなであっても、子どもっぽさは感じられない。この文のほとんどは和語でできている(地名の「すま(須磨)」は漢語調、「ほんい(本意)」は漢語だが)。

 では、まず、同じ文を、なるべく漢語を使うように書き換えてみよう。

かの須磨は、過去にこそ人の住居などもありけれ、いまはいと人家をはなれ、悽然として、漁師の住家だにまれになむとききたまへど、人家のしげく、雑然たる住居は、いと本意なかるべし。

 現代風の漢語も入っているので、握り飯の中に石ころが混じっていたような違和感(グキッ)もあるが、お見逃しいただきたい。

 では、この文をさらに、全てひらがな表記してみる。

かのすまは、かこにこそひとのじゅうきょなどもありけれ、いまはいとじんかをはなれ、せいぜんとして、りょうしのじゅうかだにまれになむとききたまへど、じんかのしげく、ざつぜんたるじゅうきょは、いとほんいなかるべし。

 たちまち小学生の教科書化する。あるいは、子ども新聞化する。

 わたしは古文に詳しくないので間違っているかもしれないが、歴史的に、漢語中心の文章は漢字を使って書かれ、和語主体の文章はひらがなで書かれたり漢字も使って書かれたりしてきた。明治以降の外来語は基本的にカタカナで書かれてきた。つまり、漢語はほぼ漢字表記に、外来語はカタカナ表記に限定され、一方、和語はひらがな表記も許容してきたのだと思う。

 その、漢語・外来語=ひらがなNG、和語=ひらがなOK、という感覚は、漢字・ひらがな・カタカナを割に平板に使っている我々にも伝わっていると思う。こういう感覚というのは、どういうプロセスを経て伝わるのだろうか。不思議であり、興味が湧く。

 ま、しかし、「かんぽ」「ゆうぽうと」「ほーむぺーじ」等々を恥ずかしげもなく使える人がいるということは、漢字表記・ひらがな表記・カタカナ表記の感覚が必ずしも伝わっていない、ということだろうか。うーむ。それとも、羞恥心のありようの問題か。

 あるいは、単におれの偏った好き嫌いの問題かな。そうでないことを祈りたい。