照れについて

 わたしは照れ屋で、その証拠に今、「わたしは照れ屋で」と書いた瞬間に顔が真っ赤になった。まあ、自分から「照れ屋で」などと書くのは、よい照れ屋ではないが。

 わたしの照れ屋歴は長い。この世に生まれ出たとき、産院のお医者さんと看護婦さん全員がわたしに注目していることに気づいて、真っ赤になったくらいだ。自分で言うのもナンだが、玉のような男の子だったそうで(球状だったわけではない)、見舞客や看護婦さんが「かわいい、かわいい」と抱き上げるたびに、ボッと真っ赤になったそうである。思えば短い栄光の時であった。


照れる赤ちゃん

 わたしのことはどうでもいい。なら、書くな。スミマセン。

 確か、立川談志が何かで「照れねえヤツはダメだ」というようなことを言っていたと思う。わかる気がする。

 わたしが好きな芸人のことを考えると、照れの感覚を持っている人が多いように思う。照れるからある種のことはやらないとか、逆に照れがバネになって大仰なことをやってみせるとか、照れの影響の出方は人それぞれだが。例えば、古今亭志ん生なんかも、照れるからこそああいう飄々とした外面(そとづら)になったんじゃなかろうか。違うかな。

 じゃあ、照れとはいったい何かというと、他人のことを意識するということだと思う。他人の心中を慮る。他人のことを顧慮する。配慮する。それが相手の実際の心中と大いにズレると、自意識過剰と言われるのだと思う。

「都会人の含羞」という類の言い回しがある。この「含羞」とは照れのことだろう。じゃあ、都会人ばかりが照れるかというと、そうでもない。むしろ東北や北陸の田舎の人のほうが激しく照れる気もする。

 わたしの田舎の富山には、恥ずかしがり屋の人が多い。集団の中で変に出過ぎないように、ということも含めて、他人の目を過剰なほどに意識するのだと思う。昔からの一種の相互監視のような感覚が今でも残っているのかもしれない。富山の駅に着いて、改札から一歩出てごらん。全員が真っ赤な顔でうつむいているから*1

 しかし、田舎(といってもいろいろだが)の人の照れと、都会で生まれ育った人の照れはちょっと違う気もする。あるいは、東京の照れと大阪の照れは違う気もする。また、大阪の照れと京都の照れも違う気がする。それぞれ照れるツボが違うというかな。全国照れ比べをしてみると、面白いかもしれない。


照れ照れ坊主

*1:そんなことはありません。