犬の位置づけ

 今朝の朝日新聞天声人語」欄に、かつての南極観測隊樺太犬タロ・ジロの話があった。観測隊撤退の際に隊員達が泣く泣く残していったタロ・ジロが、翌年まで生き残っていたという話である。

 天声人語は最後をこう締めている。

動物ものの美談に涙しながら、多くの犬猫をガス室に送る今の世。身勝手を憤るタロジロたちの声を、遠く聞くような50年の後である。

 執筆者は、タロ・ジロの声を本当に聞く気がしたのだろうか。もしかして、コラムを上手に締めくくるために、そんな気がしたことに決めたんではなかろうか。などと、ヨコシマな心の持ち主であるわたしは思うわけだが、ハハ、やっぱ、ヨコシマですね(自分がやりかねないことは人もやるだろう、という卑しい心理である)。

 好きな話――と書くと語弊があるのだが、タロ・ジロは死後、剥製にされたんだそうだ。タロの剥製は北海道大学植物園に、ジロの剥製は上野の国立科学博物館にあると聞く。

 剥製にする。何か割り切れない気もするのだが、それはどこかわたしに「犬だって人間だ。そんなことされちゃ、たまるまい」という心情があるからだろう。

 同じ意外な生存であっても、横井さんや小野田さんを剥製にするという話はない(小野田さんはご存命である。すみません)。タロ・ジロについては、関係者の間に「犬は犬」という判断があったようだ。