作文教育とピアノ教育

 実家にピアノがあって、幼稚園の時分に親は習わせようとしたらしい。兄と妹は習ったが、わたしはあっという間に椅子から立ち上がり、「ウンコ、チッコ、バヒュ〜ン!」と叫びながら野っ原に飛び出していったという。

 そのあたりの経緯、あまりよく覚えていないのだが、たぶん、あのバイエルというやつがイヤだったのではないか。

 その後、小学校高学年くらいの頃、バイエルを独習してみたことがある。習いにいくのはイヤだったが、ちょっとは憧れのようなものがあったのかもしれない。

 しかし、バイエルはつまらなかった。ドレミドレミ、レミファレミファである。あんな退屈なものを子ども達はよく我慢したものだと思う。

 いや、運指の練習がとても大切なことはわかる。しかし、野球をやりたい! と燃える魂の男の子に、何年間も素振りばかりさせるようなやり方はどうなのかと思う。

 今、バイエルはあまり流行らないらしい。もう少し子どもにとって楽しく、運指の練習にもなる教則本があると聞く。よいことである。

 泣きながら運指の訓練をせよ、がピアノ教育だったわけだが、対照的なのが作文教育である。

 わたしも学校ではいろいろ作文をさせられたが、「遠足に行った思い出を書け」とか、「本を読んで感じたことを素直に書け」とか、目的が漠然としていた記憶がある。基本的に「いきいき」と「表現する」と先生がヨロコぶ風潮があった。

 一方で、文の組み立て方を手取り足取り習った覚えはない。修飾・被修飾の関係程度は「文法」として習ったが、それと作文教育は別個だったと記憶している。いささか乱暴な言い方になるが、ピアノの運指にあたる練習を行わずに、「気持ち」の「表現」ばかりを重視していたのではないか。

 アメリカでは、小学校の時分から文を論理的に記述する方法を学ぶと聞く。おそらく、大半の子どもにとってはさして楽しい勉強ではあるまい。

 しかし、文の論理的な組み立て方を学ぶことは、論理的な思考法を育てることにつながるだろう。何より、そんな子どもが成長し、世の中にわかりやすい論理的な文章が増えれば、読まされる側も複雑怪奇で意味不明な文章に苦しめられずに済むというものだ。

 少なくともわたしがガキの時分、ピアノ教育は技術に偏重し、作文教育は表現に偏重していた。基礎訓練ばかりを施して子ども達をピアノ嫌いにしたのがピアノ教育で、基礎訓練をおろそかにして未来の読み手達に迷惑をかけたのが作文教育だったと思う。