ついでに生きてるような人

 落語にはいろいろとひねった表現がある。「親切の国から親切を広めに来たような人」とか、「貧乏の取り締まり」とか、あと何だ――ま、いろいろある。


 中でも、「ついでに生きてるような人」という言い回しを、わたしは特に気に入ってる。そんな境地に憧れもある。古今亭志ん朝に「世の中ついでに生きてたい」という対談集があるが、タイトルの気持ち、よくわかる。


 少々注意が必要で、「ついでに生きてるような人」を「ついでに生きてる人」としてはいけない。「ついでに生きてるような人」だからフワフワしたよさが出るのであって、「ついでに生きてる人」では何やら投げ遣りでいかんのだ。


(この話、昔に書いたことがあるのだが、お許しいただきたい。今、これを書いているわたしにとっては、新鮮な話題なのである)


「ついでに生きてるような人」の典型は、志ん朝の父、古今亭志ん生の「鮑のし」に登場する。主人公の甚兵衛さんである。


 甚兵衛さんは仕事が嫌になったらその日はよしにしてしまうような人だ。
 お寺の屋根に鳳凰が降りてくる、それを捕まえれば仕事の埋め合わせになる、と知り合いから教えられて(からかわれて)、ぼーっと待っている。そんな人だ。


 続きは志ん生の名演より。女房のおみつに――。


甚兵衛「それからおれはうちに帰ってこようかと思ったら、息苦しくなってきた。うん。息がしにくいんだ。どこか悪いのかな? と思ってだんだん考えたらね、腹が減ってやがる。それからおれはもう急いで帰ってきた。腹が減ってるってものは痛いのと違うから、医者にかかんなくたって飯を食や、すぐに直るんだ。エ。だからね、おまんま食べさせてくれよ! 飯を」


 あいにくと家には米もお金もない。女房のおみつはしっかり者で、借りたお金で魚を買い、それを元にお金を増やそうと算段する。


おみつ「尾頭付き買ってくるんだよ」
甚兵衛「何だ、オカシラツキってえのは」
おみつ「尾頭付きってのはね、頭のある魚」
甚兵衛「ああそうか。頭のあんのをオカシラツキってえのかい」
おみつ「そうだよ」
甚兵衛「ふうん。……英語だな」
おみつ「英語じゃないよ! そう言や、わかるよ」
(魚屋への道すがら、独り言)
甚兵衛「へへへえ。頭のあるのをオカシラツキだってやがんの。うちのかかあは。凄いこと知ってやがんね。恐ろしくなってきたよ」


 お読みの通り、甚兵衛さんは物を知らない。知らないことを恥とも思っていない。飄然としている。


 甚兵衛さんはたよりなく、物を知らず、いわゆる「勤労意欲」なるものもあまり持ち合わせていないようだ。まわりからすれば困ったものだろうが、それでも愛されているらしい。
「鮑のし」の中でわたしが一番好きなのは、甚兵衛さんがお向こうの山岡さんにお金を借りにいくシーンだ。甚兵衛さんの愛され方がよくわかる。


甚兵衛「こんちわあ」
山岡さん「おや、これは。おあがり。今日、仕事休みかい? エ?」
甚兵衛「ええ」
山岡さん「そう。あがっとくれ。あたしゃ、お前さんが好きなんだよ。人間に罪がなくって大好きだ。ゆっくりしといで」


 たったこれだけのやりとりなのだが、まわりから好かれている甚兵衛さんの人柄がよく感じられて、とてもよい。


 最初の話に戻ると、やはりこの甚兵衛さん、「ついでに生きてるような人」であって、「ついでに生きてる人」ではない。
「ついでに生きてる人」だと、例えば、大きな挫折を味わってその後の人生を虚しく生きている人みたいにも感じられる。
「ついでに生きてるような人」だからこそ、飄々として罪がなく、まわりも、噺を聞く人も救われるのだ。おそらく、「ついでに生きてるような人」は「生きる」なんてことについて、ことさら考えないのだろう。


 じゃあ、「ついでに生きてるような人」に誰でもなれるかというと、難しい。
 杜子春が仙人となることをいくら望んでも――あるいは望めば望むほど、仙人になれないようなものかもしれない。あるいは、人望は努力すれば得られるが、人徳は努力してもなかなか得られない、とか。


 凡人は望んでも「ついでに生きてるような人」には、まずなれない。志ん朝の対談集のタイトルみたいに「世の中ついでに生きてたい」と憧れるのがせいぜいだろう。そう考えると、杜子春の話を読み終わった後のごとく、かすかに苦みも覚える。


世の中ついでに生きてたい

世の中ついでに生きてたい

五代目 古今亭志ん生(1)火焔太鼓(1)/品川心中/鮑のし

五代目 古今亭志ん生(1)火焔太鼓(1)/品川心中/鮑のし