贅沢なテクノロジー活用

 正月は実家に帰っていた。


 実家のトイレはウォシュレットで、しかもかなりの高機能である。わたしは何度も厄介になり、特にフタに感心し、また呆れた。


 このトイレのフタ、近づくとウィーンと開き、離れると、しばらく経ってからピ、ピ、ピという信号音の後に閉じる。


 便利といえば便利だが、トイレのフタを手で開け閉めするなど、どれほどの手間でもない。実家に住む両親も、手足に不自由があるわけではない。
 まあ、フタの閉め忘れを防ぐ効果くらいはあるかもしれないが、はっきり言って、トゥー・マッチな機能である。


 フタを開け閉めするには、小型モーターが要る。また、人が近づく/離れるのを感知するよう、センサーも必要である。さらに、これらを統御するために、集積回路とソフトウェアを使っているだろう。


 それらそれぞれが大変な技術である。現在の機能と小ささに至るまでには、非常に多くの技術者が関わってきたはずだ。いささか大げさに言えば、それぞれが人類の叡智の結晶だと思う。


 しかるに、それらの高度な技術を駆使して何を行っているかといえば、トイレのフタの開け閉めだ。
 資源の活用が人間の生存という目的から離れれば離れるほど、その活用法を「贅沢」と呼ぶのかもしれない。だとすると、実家のトイレのフタは随分と贅沢にテクノロジーを活用していると思う。


 あのフタの自動的な開け閉めは、あるいは、最近流行りの「おもてなしの心」とか言うやつであろうか。
 もしそうなら、贅沢にもてなしていただいていることになるが、なぜだかわたしはあまり感謝の念を覚えないのである。