今日は、音楽評論をやってみたい。
都はるみの「惚れちゃったんだヨ」である。
いやはや、凄い。特に歌い出しの「ホ〜、惚れちゃったんだ〜ヨ〜」の唄いまわしは、筆舌に尽くしがたい。
人はこうした唄いようを、「こぶしがまわっている」と簡単に片づける。しかし、そのこぶしなるものを、もっと細かに分析するとどういうことになるだろうか。
「惚れちゃったんだヨ」において、最初に人の度肝を抜くのは、都はるみの「ホ〜」の発声である。
野太い、喉のパイプがゴォォォォと鳴る、まるで旅客機が頭上を通り過ぎたかのような声だ。聞く人は、ここでいきなりガツン、とやられてしまう。
わたしは演歌において、こうした野太く唸る発声を、都はるみ以前にやった人を知らない。
こうした発声法は、アメリカのR&Bやソウルにはある。
しかし、R&Bやソウルの源流である古いブルースでは、意外と聞かないように思う。
もしかしたら、わたしが知らないだけかもしれない。あるいは、ブルースではなく、ゴスペルのほうから来ている発声なのかもしれないが、ゴスペルについてよく知らないので、何とも言えない。
都はるみは、この発声をどこから得たのだろうか。
アメリカのR&Bやソウルからであろうか。
あるいは、まさかとは思うが、アメリカのR&Bやソウルが都はるみから影響を受けたのだろうか。
都はるみは、デビュー間もない頃の「アンコ椿は恋の花」ですでにこの発声を、あざといくらいに駆使している。
「アンコ椿は恋の花」は1964年だから、年代的にはR&Bやソウルに影響を与えた可能性が全くないわけでもない。まあ、可能性ははなはだ低いが、今後の研究課題としたい*1。
話を戻すが、「惚れちゃったんだヨ」の「ホ〜」の野太い発声は確かに人の度肝を抜く。
しかし、わたしの見るところ、この唄いまわしが人の心をつかむポイントは、むしろ、その後の音の「抜き」と「せりあげ」にある。
便宜のために、もう一度、ムービーを載せる。
都はるみは、「ホ〜」とキバった後で、「ォォォ」と音の圧を抜き、同時に音程を少しせりあげている。
音程のせりあげというのは、聞く者の心を惹きつける魔力があるようだ。クールファイブ(前川清)の「そして神戸」の歌い出し、「こォ〜べェ〜」を思い起こすとよい。
これはやはり、「せりあげ」だからよいのであって、「せりさげ」だとそうはいかない。
仮に都はるみが「ホ〜ォォォ↓」と音を下げた場合を想像してみていただきたい。おそらく、聞く人ははなはだ脱力し、極端にいえば、生きる意欲というものを失うであろう。
「抜き」も重要である。都はるみは、「ホ〜」を野太く伸ばした後、ふっと音の圧を抜き、その後の「惚れちゃったんだ〜ヨ〜」はほとんど裏声に近い、細い声で唄っている。
野太い唸り声というのは苦しいものだ。出す側も苦しいが、聞く側も平静ではいられない。一瞬ではあるが、ストレスのたまる音である。
そして、その後に、都はるみは、音をすっと抜くのだ。
これが気持ちよい。
すなわち、ストレスのある状態をいったん作っておいて、その後、音を抜いて、ストレスから解放する。
尾籠な話で恐縮だが、おなかにガスがたまって、それがスッと抜けた状態を思い出すとよい。スッと抜けたとき、苦しみから解放される快感を覚えるだろう。
そうした、ストレス→解放、を唄いまわしによって人工的に作り出すこと。それが都はるみのこぶしの秘密である、とわたしは考える。
何度も恐縮だが、「アンコ椿は恋の花」で確認していただきたい。ストレス(野太い唸り)→解放(細い声)を、何度も何度も繰り返していることに気がつくであろう。
特にサビの「アン〜コ〜ォウ、だより〜は〜、アン〜コォォ〜、だよりは〜」のところは、よくぞここまで、と思うほどの、見事な唄いっぷりである。
言い方は悪いが、見事に人の心を手玉に取っている。
これで一応の分析を終えるが、まだまだ不十分であることは、わたしも認める。
特に、「惚れちゃったんだ〜ヨ〜」のリズムと音程の変化は、実は極めて複雑であり、細かに考察することによって、我々はさらに都はるみの秘密に迫れるものと思う。
しかし、わたしには今、それを展開するだけの学問的準備が足りない。あくまで今後の展望とするに留めて、この稿を終えたい。