オーケストラの人数

 クラシック音楽の、オーケストラの話の続き。


 クラシック音楽の歴史に詳しいわけではないが、オーケストラが現在のような50名を超える大人数になったのは、ベートーベン以降ではないかと思う。


 バッハの管弦楽曲モーツァルト交響曲を聴くと、確かに現在の50名ほどの編成でも美しい演奏にはなる。


 しかし、バッハやモーツァルトは、音の厚みをあまり求めていないというか、そんなに大人数でなくても成立する音の設計をしているように感じる。


 現代的な編成でバッハやモーツァルトを聞くと、それなりに音の厚みはある。しかし、それは大編成で演奏するから厚みが生まれるのであって、もっと人数を絞った編成でもよい演奏になるように思う。


 何というか、大人数のオーケストラをフルパワーで鳴らしきるような作り方をしていないように感じるのだ。当時のオーケストラは、今ほど、大人数ではなかったんじゃないかと思う。


 オーケストラをフルパワーで鳴らしきることを最初に狙ったのは、ベートーベンではないか。


 第九なんて、ベートーベンの「もっと鳴らせ! おら! まだまだ! 行け! そんなものではない! ここぞ! ここぞ! ゲッテルフンケン! ゲッテルフンケン! おらおらおら!」という暑苦しい、いささか偏執的な情熱を感じる。


 そうして、オーケストラのフルパワーというのは、一種ヘビメタ的迫力をもって人を別世界へと運んでしまうものだから、その後の、特にドイツ系の交響曲に重たいパワー志向を植えつけたんではないか。


 いや、テキトーに何となくの印象で書いているので、全然的外れなのかもしらんが。


 もしわたしの思いつきが多少なりとも合っているなら、作曲家にパワー志向が育ったからオーケストラが大人数になっていったのか、オーケストラが大人数になっていったから作曲家のパワー志向が強まったのか、興味が湧く。


 しかしまあ、ちょっと距離を置いて眺めれば、ひとつの曲を演奏するために50人から時には100人を超える演奏家が集まってドッカーン、なんていうのは、かなり特殊な音楽のあり方のように思う。


 もちろん、そういう音楽を否定しているわけではない。まあ、経済的なことも含めて、これからちょっと厳しいだろうなあ、とは思うけど。



「もっとパワーだ」