透明感

「透明感」というのは、現代の日本ではなかなか価値あることであるらしい。


 おそらくは「透明感ある素肌に」などという、広告宣伝方面から広まった言い回しなのだと思う。
 しかし、広告宣伝というのは人の価値観や欲望を吸い上げるところから始まるものだから、“透明感はよいことである”という感じ方は、元々、人々の中にあるのだろう。


 何だろう。ゴテゴテした装飾をとっぱらってすっきりさせるのがよい、というモダン・デザイン的な価値観から来ているのだろうか。


 わたしも、透明感のある人は好ましいと思う。


 ただ、それはもっぱら眺めたり、せいぜい少し話をする程度の場合であって、深く付き合うのは難しい気がする。


 透明感のある人と2週間旅をする、というのは、なかなかにシンドいのではないか。やはり、人間、ゲタゲタ笑って、鼻くそほじくるようなことも必要だと思うのだ。


 もちろん、透明感のある人、といっても、こういう人のことではあるまい。



「透明感ある素肌に」といっても、こんなふうに見えたい、という人はあまりいないと思う。



透明感ある素肌の人


 職場などで、いるのかいないのかわからないおとなしい人を、「存在感のない人」などと形容する。
 ネガティブでよくない、と思うのである。


 そういう場合はポジティブに、「あの人は、なかなか透明感のある人だ」と呼んであげましょう。


 ついでに、たよりない人のことは、「浮遊感あふれる人だ」、とね。