名刺交換という礼式

 先週、名刺交換の際にしばしば感じる、ぎこちなさについて書いた(id:yinamoto:20081106)。


 仕事で人と初めて会ったとき、割にすっと名刺交換する流れになるケースと、不自然な雰囲気の中で名刺交換するケースがある。


 不自然な雰囲気になるのは、先に話が始まってしまったり、緊張感からお互いの出方を見てしまったりする場合が多いように思う。
 いいきっかけがつかめないと、“ああ、オレ、今、名刺交換なんかしちゃってるヨ”なんぞという、ヨジレるようなハメに陥るのだ。


 礼式というものについて、おそらく、今の時代は昔ほどうるさくない。しかし、名刺交換は、かなり強い拘束力を保っている礼式のひとつだろう。


 小林秀雄の「考えるヒント」を読んでいたら、こんな一節があった。


礼は人々の実情を導く、その導き方なのであって、内容を欠いた知的形式ではなかった。もろこしの聖人の智慧を軽蔑しないがよい。喪を哭するに礼があるとは、形式を守って泣けというのではない。秩序なく泣いては、人と悲しみを分つ事が出来ない、人に悲しみをよく感じて貰う事が出来ないからだ。


(「言葉」より)


 小林秀雄の言いたいのは、我々は、例えば、ある歌を唄う(なぞる)ことで、ある感情のありようを理解するように、礼をなぞることで、ある心のありようを理解する、ということのようだ。


 名刺交換も一種の礼であるからには、クッと腰を曲げ、己の名刺をちょっと持ち上げてから渡し、「頂戴いたします」と、相手の名刺を、できれば名刺入れを受け皿のようにして受け取り、その間もクッと腰を曲げ続けている、あの一連の型は、「人々の実情を導く、その導き方」なのであろうか。


 名刺交換が導く人々の実情とは何だろう。名刺交換するとき、我々は何を人と分かつのだろうか(悲しみ、ではないと思うが)。


 まあ、ぎこちさなさを分かつ、ことはある。“ああ、この人、今、ぎこちないよー。おれもぎこちなかったけどさー”と、弱いシンパシーとダメの気分を共有するのだ。
 しかし、それはどちらかというと失敗のケースだろう。


 小林秀雄の文章をちょっともじると、答が出るかもしれない。


名刺を交換するに礼があるとは、形式を守って交換しろというのではない。秩序なく交換しては、人と○○を分つ事が出来ない、人に○○をよく感じて貰う事が出来ないからだ。

問.○○には何が入るか。十字以内で答えよ。


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 勢いで問題をひとつこさえてしまったが(受験勉強時代に小林秀雄が残したトラウマの、飛距離は長い)、ともあれ、もろこしの聖人の智慧は、現代の我々の名刺交換にまで及んでいる、のかもしれない。


新装版 考えるヒント (文春文庫)

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