江戸前、小林秀雄

 小林秀雄の講演CDを聞いて以来(id:yinamoto:20081014)、ポツポツと小林秀雄を読んでいる。


 大昔に、一応は読んでおくべきものなのではないか、などという腰の抜けた動機で読んだ頃は、何言ってんだかよくわからなかった。さして面白いとも感じなかった。


 今改めて読むと、相変わらず肝心なところでは何言ってんだかよくわからない。しかし、独特の熱気は面白く、己の信ずるがままに速射砲のように吐き出す独断と皮肉と毒舌は痛快ですらある。


 ガツン、と食らわす快感という点では、特に初期の文芸時評、「アシルと亀の子」がいい。啖呵の切りようが素晴らしいのだ。


 時代は昭和初期。プロレタリア文学なるものが狼煙を上げていた頃。実感と細部を大切にする小林秀雄からすると、文学を社会改良のための道具のように扱う議論は、何やらうさんくさく見えたろう。


 一九三○年はプロレタリヤ小説家に対して若い芸術派小説家等の擡頭期であるそうだ。今日、文学の様々な運動が、騒々しい広目屋(稲本註:広告屋ちんどん屋)的形相でしか、吾々の目に這入って来ないことを、私は兎や角言わない。文芸時評を書く以上、ジャアナリズムに不平を言うのは、女房の面の拙さを零(こぼ)す亭主なみには馬鹿である筈だ。私は「新潮」三月号、「近代生活」四月号に載ったプロレタリヤ作家対芸術派作家の討論会の速記を忠実に読んだ。近頃眼球突出症と両便失禁症との結構な掴み合いだ。
(「アシルと亀の子II」より)


 一体こんな調子で社会社会と言われて、世の作家や批評家に何が面白い。社会とはあなたの眼前に生きた現実だ。あなたの頭の中でひょっとこ踊をする概念ではない筈だ。現実の何処を切っても社会という同じ顔があるという態の社会なるものは、飴の中から飛んで出る金太さんの様に無益である。
(「アシルと亀の子II」より)


 小林秀雄は神田の生まれだそうだが、喧嘩の口上も、江戸前だ。落語「大工調べ」に出てくるカシラの政五郎みたいである。


 私の評論がむつかしいという奇態な抗言を屡々聞く。(中略)私の評論がむつかしくて解らないなどという若々しい新進作家達は、一体どんな気で小説などというものを弄(いじく)っているのか。(中略)私のたわいもない論理をむつかしがるが如きは、凡そ作家たるものの恥である。諸君にとって一体何が一番やさしいのであるか。恐らく諸君には答える勇気があるまいから、私が代って答えるが、諸君のとぼけた理性にとって、あらゆる理論はむつかしく、唯、やさしいものは実人生なのだ。人生はナンセンスだ、エロティックだ、さては階級闘争だ、それ以上むつかしい理窟は、われわれ芸術家は知らんよ。
(「アシルと亀の子IV」より)


 近頃、知識階級の没落という事が喧しいが、知識階級が没落なんぞされては堪らない。没落するのはなまけものの階級だけである。知識階級の没落だとかスポオツの階級性だとかと堂々と論文が書ける様では、学者も中々暢気な商売止められなかろう。私は現代日本のなまけもの階級の存在は確信しているが、知識階級の存在はあんまり確信していない。
(「アシルと亀の子V」より)


 悪罵、痛罵まるだしのところばかり抜き書きしたが、小林秀雄が最初に人気を得たのは、もしかすると、こうした啖呵の切りようによるところが大きかったんではないか。


 これらを書いたとき、小林秀雄は二十八歳。血気盛んな時期でもあったのかもしれない(ちょっとブログで自分の書いたことに自分でコーフンしている人みたいでもある)。


 しかし、こうした異様な熱気は、その後の作品でも、折にふれて、裂け目からマグマのように噴き出す。
 小林秀雄の魅力のひとつは、ケツをまくって啖呵切る、カシラの政五郎の高揚感にあるように思う。


小林秀雄全作品〈1〉様々なる意匠

小林秀雄全作品〈1〉様々なる意匠