身体性

 身体性という言葉がある。
 評論や、小理屈を並べ立てるタイプの建築家の文章なんかで、見かける。


 意味としては、体を大切にしましょう、と言うと、何だか健康づくり、元気が一番、みたいな話に聞こえてしまうが、ンーと、体から感じ取ることを大切にしましょう、体の動きを意識してみましょう、体の届く範囲を認識しましょう、というようなことだと思う。


 人間が体を使って何かやる、そんでもって何かを感じて、それを元に次の行動をとる、なんていうのは、ことさら言わなくても当たり前のことで、おそらく、ご先祖様がまだ単細胞生物として悲しみを知らずに蠢いていた頃から、ずーっと変わらずにやってきたことだと思う。


 では、なぜことさらに「身体性」などと、いささかエラソーに言い出すようになったかというと、例の、わたしのいっこうアテにならない霊感で書くのだが、情報だ、知識だ、思考だ、と、頭デッカチになりがちな風潮の反動なのだろうと思う。


 頭ばっかりなんていうのもナンだからサ、体も見直してみようや、改めて意識してみると案外、新鮮だっぺ、とまあ、方言はメチャメチャだが、そういうことなのではないかと愚考するのでおます。


 脳化社会っつーんですか、頭と体の2つに分けてみて、頭のほうばかりに集中しすぎるのは何かヤバい感じがするのよねん、全き経験というのは、頭と体、両方を使って初めて得られるものではないかしらん、とまあ、そんなこんなで「身体性」の三文字が登場してきたのではないかと思うのであります。何となくエラソーに見えるし。


 しかし、そうやって出てきた身体性という言葉が、全然体っぽくなくて、頭デッカチに見えるのはどういうことなのかしらん。



チュー。も、身体性なのかしらん?