俵屋宗達を見たかったからで、宗達だけで結構な点数が出ており、満足した。
宗達はいい。どんどん好きになっている。
琳派の他の画家が、様式に浸ることで満足しているように見えるなか、宗達だけは絵に独特の生々しさ、リアリティがあるように思う。
夢の中のリアリティ、と言うとちょっと矛盾するし、キザだけれども、夢の中で遊ばしてくれるような感じだ。
今回、特にいいなあ、と思ったのは、本阿弥光悦との合作の巻物である。
宗達の下絵の上に、光悦が古来の名歌を書した巻物だ。
次のリンク先で、「作品紹介> 本阿弥光悦」とクリックしていくと、「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」という作品を見ることができる。
もっとも、この作品のよさは生の、巻物の状態で見ないと、あまりよくわからないと思う。
わたしは、少し前まで書は“読めねー、わからねー”とすっ飛ばしていた。
最近になって、書の楽しみ方がわかってきた。わかってみれば当たり前のことで、書の筆の運びを“目でなぞる”だけでいいのである。
例えば、小野道風の「玉泉帖」の一部を取り出してみよう(大琳派展とは関係ありません)。
これを「無」「故」(かな?)と、文字をパターン認識してしまっては楽しめない。
そうではなくて、筆の運びを目で順になぞっていって、線のカーブや強弱、太さの変化を味わえばよい。
例えば、こんなふうにだ。
目でなぞることで、メロディを聴くような快楽を味わうことができる。
おそらく、こういう見方は、書の世界では初歩も初歩なのだろうが、わたしは最近まで知らなんだ。
では、そうやって目でなぞると字が読めるかというと、別に読めない。
いや、読める人は読めるんだろうが、わたしはダメだ。特に草書となるとお手上げである。しかし、それでも十分に楽しめる。
英語のできない人が洋楽を聴くことに似ている。彼らは(というか、おれは)歌詞が何言ってんだか、全然わかっていない。それでも曲を楽しんでいる。
もちろん、歌詞がわかればもっと楽しめるんだろうが、歌詞がわからないからといって、その曲がツマラナイ、ということはない。いや、言葉がわからないからこその楽しみ、というのもある。
書もおんなじで、何の字かわからなくとも、それはそれで楽しめる。書によっては、エロティックに近い快感すら得られる。
また、洋楽で部分的に単語が耳に引っかかるように、ぽつぽつと字が読めることもある。
さて、大琳派展の光悦と宗達の合作巻物だが、目でなぞっていくと、こんなことが起きた。
光悦の書の、優美で大きな曲線や、刻々と変わっていく太さや、美しい丸まりを目で追っていった。メロディのように感じられた。
すると、書の後ろにある宗達の下絵が、まるでオーケストラの協奏のように響いてきた。宗達のオーケストラをバックにした、光悦の独唱に感じられたのだ。
美しい体験で、絵と書をそんなふうに感じたことがなかったから、いささか驚いた。
大琳派展に行くチャンスのある方は、ぜひ試してみていただきたい。