昨日、大して深い意味もなく、「まな板の上の鯉」と書いた。
鯉というのはよく見るとなかなか面妖な魚で、あの顔を見るたびに、わたしは“もしかして馬鹿なのではないか?”と思うのだが、東洋ではおめでたい(馬鹿という意味ではない)魚とされているようである。
「鯉の滝登り」なんぞと言う。掛け軸やなんかの画題になっている。
ガンガン登って立身出世する、という寓意なのだが、改めて考えると、めでたいことなのかどうかよくわからない。
滝登るというけれども、あれ、卵の段階で川下に流れ落ちたのでないとすれば、一度、下っているということだろう。でなければ、鯉は、何世代かかけてどんどん上に登ってしまい、最後は渓流魚になってしまうはずである。
卵の段階で川下に流れ落ちたとすれば、親の不注意だ。
つまり、鯉は一度、(若い頃にか?)落ちぶれた可能性が高い。あるいは、ある世代が見事、滝登ったとしても、別の世代は落ちぶれてしまう、と考えられる。しこうして、鯉は中下流域に生息するわけである。
我ながら屁理屈だが。
ええ、屁理屈が好きなんです。
まあ、実際には鯉が滝を登ることはないらしい。登るというのは、あのパワフルな風貌からの連想だろうか。
滝とは言わないまでも、滝に近い渓流を登るのは、鯉ではなくて、鮭である。
産卵のために、鮭は川を上る。
岩手の盛岡の川で、今時分だったろうか、産卵場所までたどり着けず、途中で息絶えた鮭の死骸をいくつも見たことがある。川の中の石や水草に、ひっかかるようにして死んでいた。
その姿は無念のようであり、無残だったが、神々しくもあった。