昨日、「昭和こいる師匠」と書いたら、寄席演芸の世界で漫才師には先生の敬称を用いる、というご指摘をいただいた。
漫才師に師匠をつけるのは、全国を席巻している上方の流儀なのかもしれない。
最初は、「昭和こいる先生」と書くのに違和感を感じたけれども、字面を眺めているうちに、だんだんしっくりしてきた。いい加減なものだ。うんうんうん、しょうがねしょうがね。
さて、昨日も書いたが、昭和こいる先生の基本的態度は「流す」。これ一本である。
あれほど表面的な態度だけで生きている人というのも珍しい。まあ、それが芸になっているわけであるが。
コムツカしく言えば、人間がつい上滑りに使ってしまう「言葉」、意志や本当の気持ちとは別に動いてしまいがちな「コミュニケーション」、もっとムツカしく言うと「意味の連続性」、「テキストの網目」(おお。なんか知らんがカッチョいいぜ)を、パロディにしている、ともいえる。
こいる先生、ある意味、最強なのではないか、と思う。少なくとも、言葉であの人を負かすのは難しい。こいる先生は勝つことはなくとも、まず負けることはないと思う。
試しに、古今の名言、名作と、こいる先生を対決させてみよう。
いきなり大物。徳川家康 vs.(バーサス) こいる先生。
「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し。急ぐべからず」
「うんうんうん。急いじゃいけないやな。ロクなことないや。うんうんうん」
カエサル。
「賽は投げられた」
「投げられちゃったって。アハハハ。しょうがないやな。ホント、ホント。うんうんうん」
川端康成。
「国境の長い トンネルを抜けると雪国であった」
「はいはいはい。雪国。はいはい。寒いね。ま、そういうもんだな。こらしょうがないわな。はいはいはい。人生なんてそんなもんだ。はいはいはい」
清少納言。
「春はあけぼの。やうやうしろく成り行く山ぎは。すこしあかりてむらさきだちたる雲のほそくたなびきたる」
「そうだそうだ。うんうん。あけぼのあけぼの。いいやねいいやね。ま、何でもいいや。アハハ。結構、結構」
「憂国」
「よかったよかった。うん、よかった。え、よくない? ああ、そう。よくないってさ。はいはいはい。謝っときゃいいや。ホント、ホント。すみません、すみません。はいはいはい(激しく両手を振る)」
「ウ、ウ、ウォラ」
「うんうん。ウォラ、ウォラ。よかったよかった。ホーホーホー。とにかくよかった。ま、そういうことにしとこ。よかったよかった。うんうん、ウォラ、ウォラ」
とてもかなわない。
人望と人徳という、よく知られた話を思い起こす。
人望は一度失敗すれば失われるが、人徳は何をやっても許されてしまう。
こいる先生のような人が身近にいたら、まわりはいろいろ困るだろうが、結局は「しょうがねーなー、あの人は」で済まされてしまうだろう。
困られながらも、愛されすらするかもしれない。
なぜだろうか。悪意がないからだろうか。
いや、悪意がないと言えば、たいていの普通の人がそうである。のいる先生みたいな人は、態度自体が悪とも言える。しかし、許されてしまう。
かといって、必要悪でもない。別に必要でもないから。
困りながらも、ほっと息をつける、ということか。飄々として、迷惑するのだが、緊張をほどいてくれる存在。別の空気の中でも息できるんだ、と気づかせてくれる人。
なお、今日書いたのはあくまで「昭和こいる先生」のこと。本名・庄田太一さんが、舞台を降りたらどんな人かは知らないし、知らないでいたい。実は律儀な人だった、なんていう、新聞の追悼記事のような情報はいらない。
なぜなら、昭和こいる先生はファンタジーだから。