こいる師匠と仙人

 前に書いた覚えがあるが、わたしは漫才の昭和のいるこいるが好きで、テレビなんかで見かけると、ただもうそれだけでウレシくなる。


 のいるこいるの漫才のパターンはいつも一緒で、のいる師匠の真面目な話に、こいる師匠がテキトーな相槌を打つ。それだけである。
「わかったわかったわかった」、「はいはいはいはいはい」、「しょうがねしょうがねしょうがね」、「よかったよかったよかったよかった」、「よくないってさ、ま、どっちでもいいやな」、「そんなもんだそんなもんだ」、「すみませんねすみませんねすみませんね」。



 このムービー、10年くらい前のもののようだ。おふたりとも若い。
 悪くはないが、こいる師匠の本領は完全には発揮されていないと思う。こんなものではないのだ、こいる師匠のテキトーさの爆発力は。


 こいる師匠は、いわゆる癒し系だろう。
 見ていると、ふーっと楽になる。人間、こんだけ流して生きていければ、いいだろうなー、と思わせる。


 そう感じる裏には、つい真面目なふうを装ってしまう自分の姿とか、まわりに合わせて嘘をついてしまったこととか、シャカリキに生真面目にぶつかりすぎてかえってのっぴきならない状況になってしまった苦い記憶とか、自己愛のゆえに深刻に考えすぎてしまうこととか、いろいろなことが潜んでいるように思う。


 人間関係でしんどい思いをしたことのない人は、こいる師匠のよさがあまりよくわからないのではないか。知らんけど。


 こいる師匠をいい、と思うその心は、仙人への憧れにも通じるように思う。


 古来、仙人が憧憬されてきたのは、不老長寿もあるだろうが、俗世のわずらわしさ、ドロドロしたこととは無縁でいられる、という理由が大きかったのではないか。


 こいる師匠(の舞台の上でのキャラクター)もまた、ふわりとして、流れる雲のごとし、である。浮浪雲の魅力にも通じますね。


 もしこいる師匠が杜子春の仙人になったら、どうなるだろう。


杜子春はちょいとためらいました。が、すぐに思い切った眼を挙げると、訴えるように老人の顔を見ながら、
「それも今の私には出来ません。ですから私はあなたの弟子になって、仙術の修業をしたいと思うのです。いいえ、隠してはいけません。あなたは道徳の高い仙人でしょう。仙人でなければ、一夜の内に私を天下第一の大金持にすることは出来ない筈です。どうか私の先生になって、不思議な仙術を教えて下さい」
「はいはいはいはいはい」


 名作とはなりえない気がするが。


 人間なんてこんなんでいいのだ、という願望、ファンタジーが、庄田太一という群馬県生まれの男性に憑依し、64歳のジジイになった。それが昭和こいる師匠だと思う。