ハードボイルド的

 例によっての突拍子もない思いつきで恐縮だが、日本には、和歌、俳句、狂歌、川柳といった、フレーズを創作する文化がある。
 詠む会を催したり、発表の場を設けたり、投稿したり、歌集、句集を出版したりして、作品をやりとりする。著作権もあるのだが、適用はルーズなようである。


 あれらと同じように、ハードボイルド的フレーズを創作する、という遊びはできないだろうか。


 ハードボイルド的。
 そう、渋い男(女でもよいが)が眉根を寄せ、何かにじっと耐え続ける、あの表現スタイル。微笑や、口の端をわずかに上げるような笑いは許されるが、決して腹を抱えての大爆笑は許されない世界。


 ルールは簡単だ。


 男は、ドライ・マティーニのグラスを見つめながら言った。
「○○○○○○○○」


 ○○○○○○○○に入れるセリフを作ればいいだけである。
「ドライ・マティーニ」の部分は、バーボンでもスコッチでもギムレットでも、多少妥協してシャンパンでもいいが、決してブルー・ハワイやマルガリータはいけない。芋焼酎もいけない。チョーヤの梅酒は論外だ。


 試しにひとつ作ってみよう。


 男は、ドライ・マティーニのグラスを見つめながら言った。
「人生について考えるのは悪くないが、人生について語るのは間抜けだぜ」


 なぜかと問うなかれ。理由はいらないのだ。それが、“ハードボイルド的”である。


 こんなのはどうか。


 男は、ギムレットのグラスを見つめながら言った。
「砂漠に行ってみりゃわかるぜ。女は逃げ水だってことがな」


 ただのモテない男かストーカーの言い草なのだが、ハードボイルド的になれば、経験豊かなふうに聞こえてしまうのである。


 男は、スコッチのグラスを見つめながら言った。
「死ぬまで生きざるを得ない。それが人間だ」


 当たり前のことを言っているだけだ。しかし、ハードボイルド的にすると、そこに意味があるのでは、とつい深読みしてしまうのである。


 男は、ライ・ウイスキーのグラスを見つめながら言った。
「なぜ世の中に貧乏な人間とそうでない人間がいるか、わかるか。それは、システムに利用される人間と、システムを利用する人間がいるからだ」


 正しいかどうかはどうでもよい。ハードボイルド的文脈で、了、とされればそれでよいのである。


 俳句や川柳の句会のように、同人が夜、バーに集まり、時折、フッと溜息つきながら、ハードボイルド的フレーズを吐き合う、それを句集にまとめる、なぞというのも楽しいかもしれない。


 タモリ倶楽部あたりでやらないかしらん。このアイデア、300円で売るヨ。


 なお、断っておくが、上記はあくまで“ハードボイルド的”であって、ハードボイルドではない。
 本当にハードボイルドな男は、ほとんど誰にも気づかれずに、ただただ耐えているはずである。