昨日の続き。日本語のローマ字(化)論について。
わたしは、ガキの時分から慣れ親しんでいるせいもあるが、日本語の漢字、ひらがな、カタカナ、欧文が乱れ飛ぶ手法を気に入っている。
例えば、「におい」、「匂い」、「臭い」、「ニオイ」と書くと、それぞれ違ったニュアンスを感じ取れるが、ローマ字化してしまうと、「nioi」の1つしかない。
ここのページにも時々書くが、普通なら「疑惑の眼差し」のところを、わたしは「ギワクのマナザシ」などと書くこともある。これまた別のニュアンスがあるからだ。
こういう楽しみは、少々苦労しても、漢字を学習しない限りは、なかなか味わえない。
まあ、今、ローマ字論を唱える人は少数だろうし、今後、日本語がローマ字化することは、63年前の敗戦並みの文化的ショックがない限り、ありえないだろう。
しかし、なぜローマ字論を唱える人がいた(いる)のか、理由は考えてみてもよいと思う。
これまで読みかじったものからの何となくのまとめだが、大きくは昨日書いたように、3つあるように思う。
・文字の国際化(正しくは欧米化。もしくは欧米とのコミュニケーション重視)
・漢字習得のための学習時間の節約
・ワープロの使用
さらにまとめると、ローマ字論者の重視しているのは効率で、その根底には、言葉は何かを実現するための手段であるという考え方があるように思う。
一方、上に書いたように、「疑惑の眼差し」を「ギワクのマナザシ」と表記することは(少なくともわたしの中では)手段ではなく、目的である。随分、くだらない目的ではあるが。こう書きたいのだ。こう書いてうひうひ思いたいのだ。すみません。
こんなことを書いているのは、少し前に、日本語に横書きと縦書きがあるのは無駄だから横書きに統一すべし、という主張を読んだからで、効率偏重であり、言葉を手段としてしか見ていない、痩せた意見だと思う。
鉄筋と木造では鉄筋のほうが頑丈で長期的コストも低いのだから(いや、どうだか知らんけど)鉄筋に統一すべし、という考え方にも似ている。人が木造の住宅に住むのは、効率のゆえのみではないだろう。
言葉には、手段としての側面と、目的としての側面がある。そして、言葉をもっぱら手段としてしか見ない人もいる。
終戦後の、効率を重視したいわゆる国語改革(漢字制限、漢字の新字体、現代仮名遣い)で、実は日本語は多くのものを失ったはずなんだけどね。戦後教育を受けたわたしには、失われたニュアンスがなかなかわからないけれども。