- 作者: 高砂浦五郎
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2008/07
- メディア: 新書
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大相撲の高砂親方が2007年の朝青龍騒動と絡めて、親方の仕事、相撲部屋の日常、自分の考える師匠のあり方について語った本。
将来、相撲部屋の親方を目指している方には大いに参考となる内容だと思う。
そうでない方には実用上の役には立たないだろうが、しかし、高砂親方にもあの騒動に関していろいろ言い分があるのだなあ、ということがわかる。
朝青龍騒動は、朝青龍が怪我の治療を名目に地方巡業を休み、モンゴルに帰国して中田英寿とサッカーをする姿が報道されたことから始まった。
わたしは、その映像を見ていないのだが、高砂親方によれば、別に好きでサッカーに興じたわけでもないらしい。
(稲本註:朝青龍は)この時点では、まだ自分のやったことの重大さがすぐには分析できなかったようでした。
「日本の外務省を通じてモンゴル政府からの要請があり、友好のためにやったことなのに。どうして?」
と、納得できない思いがあったようです。当初はイベントでTシャツを配るだけの予定が、周囲に乗せられ、もともとサービス精神のある子でもありますから、痛みをおしてほんの短時間、サッカーをしただけなのに――という思いだったのでしょう。
本当なら、巡業を休んだことの是非はあるが、考えようによっては偉いやつ、ともいえる。
帰国した朝青龍は日本相撲協会から二場所出場停止、約四ヶ月間の謹慎処分を受けた。朝青龍は自宅に引きこもってしまい、精神障害を訴え、医師から解離性障害と診断された。
自宅を訪ねた高砂親方によれば、朝青龍は相当参っていたという。
カーテンを閉めっぱなしにした部屋のなか、彼が個人的に雇っているマネージャーが、外部との連絡係としてつきっきりでいて、朝青龍本人はソファに座ったまま動けない。(中略)
まず、目が「飛んでいる」とでもいうのでしょうか、目の焦点が合っていない様子なのには驚きました。
「大丈夫か」
と話しかけても、呆然としていて反応がなかったり、まったくいつもの朝青龍ではなく、確かに様子がおかしかったのです。(中略)
最初は、「少しは話ができるのかな。大丈夫そうだ」と思って話し掛けても、すぐにまた反応がなくなる。
会話できるときとできないときとがあり、沈黙の時間が多く、話ができるときは、唯一、目の焦点が合っているときだけです。
バッシングということについて考える。
朝青龍を叩く人々は、こういう文章を読むと、先のモンゴル帰国の際の故障も含めて、「仮病だろ」と思うのかもしれない。
わたしにはもちろん、どうだかわからない。しかし、もし演技や誤魔化しでないなら、人をここまで追いやるのは残酷な行為だと思う。
実際、朝青龍騒動の間の高砂部屋は、大変な状態だったらしい。他の弟子達についてふれた文章で、高砂親方はこう語っている。
連日、朝から晩まで部屋の周囲にマスコミが張り込んでいて、外出するたびにマイクを向けられる。部屋で電話番をしていても、嫌がらせやお叱りの電話が鳴り響く。右翼の街宣車までが来て、
「日本の国技をなめるな!」
「朝青龍は廃業してモンゴルへ帰れ!」
「高砂親方も責任を取れ!」
などと、がなり立て、彼らの昼寝の時間も妨げられるようなことがありました。
抗議の電話というのは、かけているほうは“正義”のつもりでも(言っては悪いが気楽な立場である)、数が重なれば、受ける側には恐怖に違いない。
高砂部屋でさえこうなのだから、朝青龍本人の受けた圧力や恐怖は大変なものだったろう。
朝青龍と高砂親方を叩くひとりひとりは、“自分は正しいことを言っている”と思っていても、それが束になって押し寄せたとき、バッシングされる側の受ける圧力には、物凄いものがあるだろう。巨大な悪意(叩く側はおそらく悪意とは思っていない)がのしかかってくるように感じるのではないか。
朝青龍は間違ったことをしたのだから、叩かれても仕方がないのだ、という考えもあるかもしれない。それもさてどうだろうか。
高砂親方は、同時期に起きた時津風部屋の新弟子急死事件と比べて、朝青龍問題をこう捉えている。
朝青龍騒動は、あくまでも「相撲協会内部の規則を破って、横綱がペナルティを受けた」という、言ってみれば相撲協会内部だけの問題でした。決して朝青龍が社会的に非難される「犯罪」を犯したわけではありません。
ほぼその通りだと思う。
付け加えるなら、朝青龍が休んだ地方巡業で朝青龍を見ることを楽しみにしていた人々、及び各地の地方巡業の勧進元は朝青龍に文句を言う立場にあるだろう。
しかし、その他の人々は、言い方は悪いが、野次馬だと思う。しばしば、その関心は居酒屋談義的いい加減さを伴い、女性週刊誌的好奇心に基づいている。
バッシングにのっかって「正論」なるものを吐き、いい気持ちになりたいだけではないか、と思うこともある。
そして、その結果、繰り返しになるが、バッシングを受ける側は、大変な悪意の量に呑み込まれることになる。受けるべきペナルティを、はるかに上回る悪意にさらされる。
これだけ各人が意見を言えるメディアが増えると、悪意の総量は恐るべきものだろうと思う。
――などと、しかつめらしい話ばかりになってしまったが、読むと、高砂親方、何だかあっけらかんとしている。
そのあっけらかんさが、人によっては無責任なように映るのかもしれないが、どうもそうではなさそうだ。あっけらかんさは、高砂親方の美質のように思う。
朝青龍問題を別にしても、弟子との距離の取り方、組織としての相撲部屋等々、面白い本です。