行動の自動化(続)

 昨日の続き。行動の自動化について。
 例によって、わたしのいっこうアテにならない霊感によるものだということをお断りしておく。お読みになっている方は、一言たりとも信用しないでいただきたい。


 行動の自動化、つまり、頭の中の決まった回路に自動的に信号が流れて、意識せずに行動する、というのは必ずしも悪いことではないように思う。


 例えば、楽器の演奏。
 経験のある方ならわかるだろうが、楽器を練習し始めた当初というのは、いろいろ考えながら、無理矢理手足、指先、口などを動かさなければならない。


 ピアノやギターなら、こことこことここに指を置いて、このタイミングでこう動かす、とか、笛なら、唇をリード部分にこう当てて、指の配置をこうしたとき、こう息を吹き込む、とか、細かに意識する必要がある。


 最初の頃はなかなか大変で、変態的に身をよじりながら練習するのだが、しかし、熟達するにつれ、体が勝手に動いてくれるようになる。
 おそらく、脳の中の回路が確立して、考えなくとも、自動的に回路に信号を送るようになるのだと思う。


 あるいは、スポーツの体の動かし方、なんていうのも、最初は意志の力で体をどうにかしなければならない。


 野球の投球動作、なんていうのは慣れると自然にできる。
 しかし、利き腕の投球動作に慣れている人でも、利き腕と反対側で投げようとすると、非常に違和感があり、下手すると、足を反対に出してしまったりする。脳の中の回路ができあがっていないからだろう。


 そもそも、立つ、歩く、発音する、なんていう人間の基本動作も、1、2歳の時分に随分と苦労して練習するわけで、あれは行動を自動化するための回路を確立しようということなのだろう。


 でもって、年をとってくると、もっと些末なことにも行動の自動化が起きるようになり、出勤前になれば無意識のうちにネクタイを締めるとか、納品書の束を見れば無意識のうちにペタペタ判子を押していくとか、異性と見れば無意識のうちに抱きつくとかするようになるわけである。


 一方で、思考の自動化というのもあるように思う。


 2×2といえば4というのもあるし、稲本といえば、「馬鹿である」「間抜けである」「やる気の不自由な人である」という答が出てくる、というのもある。


 まあ、稲本=馬鹿、間抜け、やる気の不自由な人、ということについては、本人も「ムム。事実である」と認めざるを得ないが、これを、稲本“達”=馬鹿、間抜け、愚図、やる気の不自由な人、と自動化を拡張してしまう人もいて、コマったものである。
 稲本が馬鹿その他であるのは仕方ないとして、まわりまで巻き込んでしまうのは、わたしとしては申し訳ない。


「ナントカ人は〜」という話は、たいてい、その類であって、思考の自動化というのは、時に雑で、信憑性の薄い説に結びつく。ワシガ当タリ前ト思テイルコトハ、モシカシタラ間違ッテオルノデハナイカ、と疑惑のマナザシで見てみることも結構、重要なように思う。