皿を洗おうとして流しの前に立ったら、スポンジに歯磨き粉をにゅるにゅるとかけてしまった。
ボケていたといえばボケていたのだが、これはひどい。
どうしてこういうことが起きるのかというと、行動の自動化が進むからじゃないかと思う。
どういうことかというと、年をとると、脳内の神経細胞の数が減るし、神経と神経のつなぎ目の数も減ってくる。回線が減るわけですね。
でまあ、ここから先はわたしの霊感によるので、一文字たりとも信用してもらっては困るのだが、年をとって回線が限られてきても、ある程度思考能力のパフォーマンスを維持するために、脳が思い切って回路を絞り込んでしまうんではないか。
つまり、行動を起こすたびにいろんな回路を動かしていては効率が悪い。
なので、自動的に信号を流す回路を、これまでの経験に基づいて決めてしまい、必要以上に脳の労力を使わないようにする。そうやって確保した“自由になる”回路を、思考のほうに回す。と、そういうことではないか。
説明がわかりにくいか。
行動の自動化というのは、別に年をとらないでも行われることで、例えば、歩く、なんていうのは、“左足を、ちょうどつぶれた放物線を描くように地表から2、3cm、前方へ40cm程度突き出した後に、地表へと下ろす作業を行い、足裏が地表を感知すると同時に(その感知の程度を絶えず連絡しながら)膝をクッションの代わりにやや曲げ、同じタイミングで、右足は左足、胴との重量配分に配慮しつつ、地表を軽く蹴るような感覚で〜”などといちいち考えるわけではない。ほとんど考えずに、自動的にやっているわけですね。
あるいは、熟達したピアニストは、演奏のかなりの部分を、長い、長い訓練の果てに獲得した行動の自動化によって行っているのだろう。
もちろん、ピアニストは意志、思考に基づいて演奏を組み立てるわけだが、それは演奏の大元の話で、百分の一秒単位で動かさなければならない個々の指の位置や圧力なんかは、“考えたうえで”どうにかできるものではない。
行動を自動化してしまうと、いちいち脳のあちこちに信号を流さなくて済むようになり、反応が早く、簡便に、しばしば正確に行えるようになるんだと思う。
で、こういう自動化は、年をとると、いろんなことで行われるようになる。
話すとか、字を書くとか、意志、思考の力によるところ大と思われている行動も、結構、自動化する。
ある程度年のいった人は、自分の言動を観察してみていただきたい。
誰かから何か言われたとき、かなり紋切り型の返答をしていることに気づくだろう。そういうとき、たいていはほとんど考えずに話している。
「いやあ、お世話になりました」
「こちらこそ」
とか。
書き間違いなんていうのも、「こう書いたら、次はこう書くものだ」という頭の中の決め事があり、それとは別のことを書こうとすると、ついつい、間違ってしまうのだと思う。
京子さんという女性が書いた「文京子本郷」という封書の宛名書きを見たことがある。
で、冒頭のスポンジに歯磨き粉にゅるにゅるの件だが、おそらく、わたしの頭の中では、
流しの前 + 立つ → 歯みがき
という回路ができあがっているのだろう。
ところが、流しの前に行く前にわたしが考えたことは「皿を洗おう」であり、スポンジを持つところまではうまく行ったのだ。その結果、
流しの前 + 立つ → (スポンジに)歯みがき粉
という、実にスケールの小さい悲劇が生まれてしまったわけである。
繰り返しになるが、以上のリクツは、一切、信用してはならない。何せ、行動を自動化して書いたものだから。わたしの意志と思考とは無関係だ。キヒヒヒヒ。