異常な娯楽

 のっけから何だが、ホールでやるクラシックの演奏というのは、ちょっと異常な娯楽ではないかと思う。


 演奏中、奏者はもちろんだが、観客も、咳、くしゃみをこらえなければならない。屁は論外。ウンコは問題外の外だ。当たり前か。


 まあ、しかし、昔から、出物腫れ物所嫌わずといって、これらは本人の意志とは関係なく出たがる。何かの拍子に前触れもなく出てしまう場合もある。


 そうして、出てしまうと、まわりから睨まれる(らしい。実はよく知らない)。もしかすると、「チッ」と舌打ちされるかもしれない。
 そうして、舌打ちした人間も睨まれて舌打ちされ、それがまた舌打ちを呼び、連鎖反応となって、やがては演奏そっちのけで、ホール中、舌打ちの応酬になるわけだ。ザマーミロ。違うか。


 クラシックについて書き始めると、どうも悪口めいてしまう。明治以来の積年の恨みと、尻にデキモノができるまで座らされた学校の木の椅子のトラウマかもしれない。


 クラシックの演奏中は出物腫れ物をこらえなければいけない。時には、人間の限界に挑戦するようなことも必要になる。


 まあ、それだけ演奏者も、観客も、繊細な音に集中しているということなのだろう。


 もちろん、他の芸能・芸術でも、物音を立てるのが憚られる瞬間というのはある。しかし、それはもっぱら佳境に入ったときであって、せいぜい数分というところだろう。
 落語でも、お芝居でも、いわゆるダレ場(山場に持っていくためにわざとダレさす場所。ただし、下手な演者がやると全編ダレ場になる)では、割に平気でくしゃみや咳を許している。


 西洋の舞台の流儀が入ってきたせいで今はちょっと変わってきたが、昔の寄席や歌舞伎は、演技中でも、普通に飲み食い、煙草を許していたらしい。今の大相撲の枡席みたいな感覚ですね。


 一楽章、十分なり二十分なり、ずーっと、音を立てるな、傘なんぞ倒さないようになるべく身動きもするな、できれば息も止めていろ、苦しくなったらしょうがないからそーっと吸え、なんていうのは、メジャーな娯楽では、クラシックくらいではないか。


 尾籠な話になって恐縮だが、たまにNHKでオーケストラの演奏を見ると、「あれだけ人数がいれば、中には腹具合の悪い人もいるだろうなー。我慢してんだろーなー」などと、くだらないことを考える。
 まあ、そういう状態を耐え続けられる演奏者、観客にだけ、許される娯楽ということなのだろう(あたしは自信がない)。


 もちろん、だからクラシックはいかん、ということではなくて、ただ、異常な娯楽ではあると思う。


 ジャズピアニストの山下洋輔と、クラシックのオーボエ奏者の茂木大輔が、対談でこんなことを語っている。


山下 (……)クラシックのオーケストラという音楽のあり方は、一番変と言えば変ですよね。普通、人間というのは、ほっておいたらああいう音楽はしませんよね。太鼓をたたいて笛を吹いて踊りを踊って、センター音一つで何かやってという方が多いと思うんですが、あんなにいろいろなところから集めた楽器を、百人近い人間が一緒に、紙に書いた記号見て鳴らす。その一人一人に現場での二十年の訓練が必要(笑)。
茂木 完全に奇形ですよね。
山下 だからこそすごいと思うんですよね。
茂木 だから、本当に他に類を見ない作業です。まず、あれだけの多人数の人たちが関わって一個のことしかやっていないということが不思議だし、その一人一人の専門職としての養成にかかる、期間と質ですね。
山下 大変な労力というか、金と時間がかかっている。
茂木 貴族社会から生まれたものなんだろうな。貴族社会でたくさんの人が一人に奉仕するという図式があって、お城というものはたった一人の王様のものなのに、いろいろな人が働いていて、音楽もたくさんの楽士がいてその王様に聴かせる。
 それが崩壊しかかると、その反動で、もっとでかい声で物を言おうと、ベートーベンあたりからどんどん規模が、ベルリオーズとか、大きくなって、王様のかわりに芸術家が封建主義者みたいな人になって、大規模なものを司るというふうになった。


(「音楽(秘)講座」、山下洋輔茂木大輔仙波清彦、徳丸吉彦著、新潮社より)


 昔の王様なら、カデンツァの途中でクシャミをした楽士をクビにするなり、クビをちょん切るなりできたのかもしれないが、今では観客席に大勢の王様が座っている。


 でもって、クシャミをした王様を、別の王様が睨みつけたりしているわけだ。やはり、わたしは遠慮しておいたほうがよさそうな場所である。


音楽マル秘講座

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「今日の嘘八百」


嘘七百十三 オーケストラの楽士が燕尾服を着るのは、「プス」という音をなるべくガードするためである。