方言俳句、方言和歌

 例によって、脈絡のない思いつきで申し訳ないのだが、俳句や和歌を方言にするとどうなるだろう。


 例えば、


天の原ふりさけみれば春日だね
三笠の山にいでし月かもね


 などと東京気取り弁にしたり、


奥山にもみぢふみわけなく鹿の
声聞く時ぞ秋はかなしいですたい


 などと九州左門豊作弁にしたりと、強引にやるのも、まあ、面白い。


 しかし、もう少しさりげなく方言にするほうが情趣が深いように思う。


 例えば、芭蕉翁の句なら、


むざんやなあ甲の下のきりぎりす


 と、こう原文を活かして、せいぜい語尾を伸ばすくらいが遊びとしては面白い。


 今の「むざんやなあ」もそうだが、関西弁は、全体に、大げさに感動してみせる調子があるようだ。


名月やあ池をめぐりて夜もすがら


荒海やあ佐渡によこたふ天河


我ときて遊べやあ親のない雀


 最後のは、句の終わりも「親のない雀エ」と伸ばすと、天王寺あたりで昼間っからヨッパラっているオッチャンの雰囲気が出る。


 一方、俳句、和歌でよく使われる詠嘆の助動詞「かな」は、語尾を伸ばすと、標準語弁(なんて言葉はないけど)になる。


忘らるる身をば思はずちかひてし
人の命の惜しくもあるかなあ


あはれともいふべき人は思ほえで
身のいたづらになりぬべきかなあ


ざらしを心に風のしむ身かなあ


おもしろうてやがて悲しき鵜舟かなあ


よく見れば薺花咲く垣根かなあ


 何かこう、不安定というか、自信なげである。


 標準語は、意外に弱々しい。特定の地域に住む人々が長い間話し、煮込んできた、というバックボーンがないせいかもしれない。
 という結論は、さすがに強引かもしれない。


 面白いもので、歌や句を方言にしてみると、その方言独特の感覚があぶり出されるようである。正確には、その方言に対して自分が抱いている感覚が、だが。


 名古屋弁


春過ぎて夏来にけらし白妙の
衣ほすちょうよ天の香具山


 さすがに無理矢理か。


 広島弁


見し人も宿も煙になりにしを
何とてわが身消え残るけん


うち捨ててつがひ去りにし水鳥の
仮のこの世にたちおくれるけん


烏羽玉の夜の錦を龍田姫
たれみやま木とひとり染めるけん


神風や五十鈴の川の宮柱
幾千代すめと立て始めるけん


 あくまで雄々しい。「仁義なき戦い」の影響だろうか。


 遊びをせんとお生まれたけん。戯れせんとお生まれたけん。

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「今日の嘘八百」


嘘七百五 下痢は腸のヒステリーである。便秘は腸の不貞腐れである。