昼寝の仁義

 人間、眠いとなると、どうにもしようのないもので、特に昼間に眠くなると、地位も名誉も、ついでに信用もいらない心持ちになってくる。


 あたくしなんぞ、一生眠っていてもいい、と思うときがある。我ながらやる気というものに著しく欠けるが、まあ、しょうがない。


 今は家で仕事しているので、その点、便利である。
 昼飯を食って、とろとろっ、と来たら、昼寝ができる。幸せというのは、案外と身近にあるものだ。


 枕には、もっぱら広辞苑を使う。厚さがちょうどよいうえ、何となく賢くなれるような気がする。
 本格的にベッドで眠るのと比べて、「あくまで仮に寝るだけですからね、あくまで仮に」と、自分に言い訳できるのも便利なところだ。


 そんなふうにして、1時間から1時間半ばかり半覚半睡のような感じで眠るのは、実に心地よい。


 昔、会社勤めをしている頃は、そうはいかなかった。
 一度、眠くて、眠くて、どうにもしょうがなくなって、倉庫で寝ていたら、後輩に見つかったことがある。


「うん。いや、はあ、えーと、あの箱、どこだっけ」などと、慌てて取り繕ったが、何せ寝起きだもんで、しどろもどろであった。
 元々敬意は払われていなかったが、以来、軽蔑の眼差しで見られるようになった。


 昔、京都で営業をしていた友達に聞いた話だが、そいつは毎日、クルマで得意先を回る仕事をしていた。


 ご存じの通り、京都は三方を山に囲まれている。
 ある山に登る道の路肩には、午後になるとクルマがずらりと駐車する。これ、全て、昼寝する人のクルマなんだそうだ。


 京都中からクルマで営業している人達が集まって、そこで昼寝している。
 お互いにどこの誰だか知らないが、毎日のように昼寝に来ると、何となく「あの人の場所」みたいなことが決まってくる。そこに駐車するのは、遠慮したい心持ちになるんだそうだ。


 春先の、木漏れ日の差す京の山道。営業のクルマの運転席のシートを倒して、とろとろ昼寝する。実に気持ちよさそうだ。


 人間が昼寝できない社会というのは、どこか間違ってる気がする。


 なお、京都の昼寝山道は、十何年も前の話なので、今、どうなっているかは知りません。

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「今日の嘘八百」


嘘六百九十 その山道では、駐車違反の取り締まりに来たパトカーの人も、結局、面倒くさくなって、昼寝してしまうんだそうだ。