現代社会に住む我々は、多くの場で泣くことを禁じられている。
市役所で職員がチンタラしていて住民票の発行が遅いからといって泣いてはいけないし、往来で滑って転んで膝をすり剥いても(少なくとも大人は)泣き出してはいけない。
しかし、何のリアクションをとらないのもいかがなものか。というわけで、我々は市役所では怒り狂い、往来ではエヘヘとバツが悪そうに笑うのである。
そうして、心には垢がたまっていく。
ここで、わたくしは現代社会に向けて、抜本的な提言をしてみたい。
一切我慢ということをせず、己に忠実に、泣きたいだけ泣いてよい日、というのを1年に1日だけ設けてみてはどうか。その日は、ありとあらゆるプレッシャー、不快感に対して、こらえずに泣いてよいのである。
おそらく、サラリーマンの1日は次のようになるだろう。
朝起きて、会社に行くのが嫌だ、といきなり泣き出す。マーガリンの味が納得いかないので泣き、ウンコの出が悪くて泣く。
満員電車の中では、全員、わーわー泣いている。当たり前だ。何がうれしくて、あんな不快な空間であんな不快な姿勢をとらなければならないのか。
車内放送では、車掌が、皆さんに不愉快な思いをさせて申し訳ないと、むせび泣くような震える声で次の駅名をアナウンスする。
「さ、これから会社ですよ」
電車から降りるときには、お互いに肩を叩いて慰め合う。哀しみと、心が通じ合ったわずかなぬくもりを感じて、必ずしも不快ではない涙を流しながら、階段に向かって歩み始める。
会社につくと、受付嬢がハンカチを噛みしめながら、ワーワー泣いている。こちらも思わずもらい泣きする。
朝礼では、課長がコホン、と咳払いした途端、堰を切ったように全員が泣き出す。
書類に書き間違いをしては泣き、Microsoft Word (R)が余計なことばかりしやがるので泣き、決済がなかなか下りてこないのが心配になってきて泣く。
その頃、部長は決済の判を押していいものかどうか、迷いながら泣いている。
昼飯の飯屋が混んでいて、並ばなければいけないので、泣く。昼休みが終わる5分前ともなると、オフィス街のビルの谷間に、すすり泣きがこだまする。
会議では、技術者からスケジュールが短すぎる、と文句を言われて泣く。悪いことを言ってしまったと、技術者も後悔して泣く。部長の自慢話が長いといっては泣き、部長も自慢しながら情けなくなってきて、泣く。
終業時間になると、全員抱き合って、うれし泣きする。