泣きの約束事

 昨日、現代に住む我々は泣くことを抑えている、というようなことを書いたが、正確にはちょっと違うように思えてきた。
 泣いていい場合、泣かないほうがよい場合、泣いてはいけない場合が不文律、約束事として決まっているように思う。


 泣いていい場合は、お通夜やお葬式がわかりやすい例ですね。むしろ、遺族は泣くことが期待される。


 もっとも、亡き人についての受け止め方というのは人それぞれだから、“大切な人だったので、亡くなったことがまだ信じられない”と涙が出ずにいるのも、それはそれで味わい深いものとされる。お茶をおいしくいただくことができる。


 微妙なのは結婚式で、新婦の父が泣く。これは大変に結構なものとされる。
 新婦が泣くのも、まあ、いい。しかし、新郎が泣くと、ちょっと驚かれるかもしれない。


 まあ、♂の字中心社会で来たもんだから、そう捉えられるのだろう。ここんところの是非をあんまり追求すると、怖いオネエサマ方、オバサマ方が出てくることがあるので、これ以上はよしておく。


 新郎に、なぜ泣くのか訊ねると、「初夜が怖くて、怖くて」。落語「明烏」の結婚式バージョンである。


 新郎新婦の友人が「よかったねえ」とうれし泣きするのはいい。しかし、「ああ、悔しい」とハンカチ噛みしめて泣くのはいけない。
 特に、同性の友人(あるいは元恋人のケースもあるかもしれない)が「取られた!」と悔し泣きするのは、御法度である。


 仕事、会社では原則として泣いてはいけない。これは案外に強い縛りである。


 部長に怒られてワーワー泣きながら仕事する、というのは、やはり、ちょっとマズい。
 だからといって、部長に怒られて大爆笑しながら仕事するのはもっとマズいが。


 本当は、仕事でこそ泣きたいことは多いだろうに、と思う。


  さよならと ふたすじ分かるる 泣きぼくろ  おれ

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「今日の嘘八百」


嘘六百八十四 討ち入りする赤穂浪士が火事装束で外に出たら、火事好きの江戸っ子がぞろぞろついてきて困ったという。