ロボット

 人型ロボットの開発が進んでいるらしい。


 ブレイクというのか、ブームの皮切りとなったのは、たぶん、ASIMOだと思う。
 ただし、初代のASIMOには本当は人間が入っていて、転んだとき、「イテッ!」という声がしたそうだ。嘘だそうだ。


 その頃までの人型ロボットは、大学の工学部などが開発した、いささか無骨な――「無骨」という言葉の割には骨組み丸出しの、あまり垢抜けないものだった記憶がある。


 でまあ、ASIMOが大いにウケたこともあって、あちこちのメーカーが人型ロボットを発表するようになった。


 しかし、ですね。


 なぜ人型である必要があるのだろうか。


 いや、人を模することで、関節などの機構やセンサー、操作系統について学び、開発する、という目的はわかる。


 そうではなくて、ロボットといえば王道は人型、それはもう、アトム以来の夢でしょう、みたいな盲信があるような気がする。


 目を覚ませ、目を覚ませ。


 人型のロボットと暮らして、なんかいいことがあるのだろうか。どうもそこんところがよくわからない。


 最初は物珍しくても、すぐに飽きてしまう、あるいはかえって気持ち悪くなってくるような気もするのだ。


 まあ、考えられるとしたら、例のオランダ人の妻方面だろうか。最近は皮膚を模した素材もだいぶ開発が進んでいると聞くし。


 あとは介護目的、なんていう話も聞いたことがある。


 まあ、確かに、要介護の状態で、壁や天井から突き出た腕に入浴作業をしてもらう、なんていうのは、まるでモノ扱いされているようで、甚だ不快だろう。


 しかし、それが人型になったからといって、どれほど、虚しさや侮辱感が変わるだろうか。かえって不気味な気がする。


 わたしのよく使う銀行のATMは、お金を引き出すとき、「紙幣をお取りください」と録音の声で言う。キャッシュカードをしまうのに少々手間取ったりしていると、ちょっとびっくりするような大きな声で、


「紙幣をお取りください」


 と繰り返す。


 ウ・ル・セ・エ・ヨ。


 録音の声だとわかっているし、紙幣の取り忘れを防ぐためだということもわかっている。しかし、腹が立つ。


 人型ロボットというのも、もし暮らしの中に入ってきたら、同じように妙に腹立たしい存在になるんじゃなかろうか。


 あれじゃないか、家庭用の人型ロボットは、蹴ったり殴ったりと、イライラ発散用に使われるようになるんじゃないか。回し蹴りしてもオッケー、とか。


 しかし、それもまた、心が荒んでよくないように思う。

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「今日の嘘八百」


嘘六百六十七 裸の王様の耳がロバの耳だったので、人々はよりいっそう困ったという。