苦痛について

 今日は「おれ」を一人称にして、書く。


  人はとにかく生きなければならない。


 という言葉には、結構、多くの人が同意すると思う。少なくとも、我が身に生きるの死ぬのという問題が切実にふりかかってくるまでは。


 ついでに言うと、おれ自身は、


  人は、きちんと自分のことを思ってくれる人がいる限り、勝手に死んではならない。


 ということを、少々気恥ずかしいが、一種の信仰として持っている。


「人はとにかく生きなければならない」をちょっと変形すると、


  人はとにかく生かさなければならない。


 と、こうなる。


 死刑や戦争を別にすれば、現代の日本の公的な制度は、おおよそこの考え方を元にして組み立てられているように思う。


 しかし、次のような文章を読むと、ハテそれでいいのか、と思う。
 山田風太郎の「人間臨終図巻」より、俳優・志村 喬の項。


 彼は昭和五十六年、前立腺肥大の手術を受けて以来経過思わしからず、それでも黒沢映画「影武者」には老武将として出演したが、その後肺気腫(病院発表)に冒された。
 彼の扮した「生きる」の主人公は、雪のふる公園のブランコで哀切な死を待つが、「近代医学」はそんな静かな死を許さず、例によって例のごとき医学的拷問を与えた。
「もう無残とも思える治療でさぞつらかったろうと思います」
 と、親交のあった本多猪四郎監督のきみ夫人は語る。
 近代は、死に対するさまざまの恐怖に病院の「治療」の恐怖を加えた。


 まあ、簡単に言うと、安楽死の問題なんですけどね。


 安楽死の話が、議論を沸騰させたり、人を困った気分にしたりするのは、現代の基本的建前、約束事、了解事項「人はとにかく生かさなければならない」の急所を突くからだと思う。


 やっぱねえ、苦しいのって、苦しいから、苦しくてたまんないんですよ。


 しかも、我々は、どんどん苦痛のない状態や、苦痛を取り除く方法に慣れてきている。いわば「安楽生」を追いかけている。
 製品やサービスの開発というのは、楽しさ・便利の追求と、不安・不満の除去が基本だから、苦痛や不快感は製品やサービスの進化によって、減る方向にある。


 この「安楽生」を追いかけるラインが、「人はとにかく生かさなければならない」というラインと交錯したところに、安楽死の問題が現れるのだろう。



 ねえ。どうしましょうか。


 まあ、とりあえず切羽詰まるまで見ないようにしておく、というのも手ですがね。


 おれに限って言えば、延命措置は不要。あんまり見込みがないようなら、さっさとスイッチを切ってくれ、とあらかじめお願いしておく。苦しそうだったらなおのことだ。


 一人で責任を取るのがイヤなら、身内なり、友達なりが集まり、全員で延命装置のコードかなんかを持って、「せーの!」、ヤー、と引っこ抜いていただきたい。


 何なら、抜いた後、全員で「バンザーイ!」、わーっ、と盛り上がってもらってもいい。


 大丈夫。恨みゃしないヨ。おれも盛り上がるね。


人間臨終図巻〈3〉 (徳間文庫)

人間臨終図巻〈3〉 (徳間文庫)

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「今日の嘘八百」


嘘六百六十三 マゾヒストにとって、延命措置は想像するだけでたまらない境地だそうだ。