先生

 ここのページで、時折、人の名前に「先生」をつけることがある。基本的には敬称として使っているのだが、必ずしも尊敬一途とは限らない。


 講釈のほうでは真打を「師匠」ではなく、「先生」と呼ぶらしいが、「おう、先生、そこの下駄ァ取ってくれ」などと、全然尊敬されていなかったりする。あれと同じである。


 例えば、夏目漱石について書くとき、「漱石先生」と表記するときがある。この場合は、いくらか親しみを込めている。
 もちろん、親戚でもなければ、知り合いでもないから(何しろ、先生は慶応年間の生まれである)、同じ血肉を持っていて多少は情を共有できそうな人、程度の親しみである。


 落語家に「師匠」とつけるときも同じ感覚だ。「古今亭志ん生」と書くときは、客観的に書いている。「志ん生師匠」となると、血肉を持つ人への親しみがこもる。


 世間的には地位が高いけれども、どこか間が抜けていたり、わたしのほうで皮肉を込めたりするときは、カタカナで書く。


茂木センセイ、あれだけメディアに出ていて、脳について研究している時間があるのだろうか。


 なんてふうに。軽い引きずり下ろしをやっているわけですね。


 もっと皮肉を込めたり、小馬鹿にしたりするときは「センセ」となる。


茂木センセ、テレビに出るときは、「人間は〜」と言えば済むところを、単に「脳は〜」と言い換えているだけじゃなかろうか。


 とかね。


 例えば、「人間は仲間を作りたがるんですよ」という言い方は、面白くもなければ、意外でもない。
 しかし、「脳は仲間を作りたがるんですよ」と言えば、よくわからぬながらも、何か深い話をされているような気になる。


 テレビ番組というのは、たいていが立ち止まって考える時間を与えない作りになっているから、「権威っぽさ」の印象だけが残って、煙に巻かれてしまう。


 なお、茂木先生は「脳は仲間を〜」なんて言ったことはない(と思う)ので、念のため。わたしのほうでテキトーに作った事例に過ぎません。ハイ。たぶん、ちゃんとした脳科学者です。センセは。あわわわわ。


 脱線した。


 これがもっと馬鹿にしたり、親しみを込めたりすると、「セン」になる。名前の頭の二文字を取って、「山田先生」なら「ヤマセン」、「川上先生」なら「カワセン」。


 中高生が教師に対して、よくそういう呼び方をしますね。ここまで来ると、「おう、山の字」、「何でえ、中町の」なんていうのとあんまり変わらなくなってくる。


◆やってみよう!◆ いろんな人の名前に「先生」、「センセイ」、「センセ」をつけて、文章を作ってみましょう。

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「今日の嘘八百」


嘘六百六十一 声帯模写も技神に入ると、サカリのついた猫に追いかけられるという。