日本詩歌の伝統〜俳句の詩学〈2〉

 川本皓嗣著「日本詩歌の伝統」のうち、「俳句の詩学」の話の続き。講釈なら、「昨日、読みかけになっておりました〜」と始まるところだ。


日本詩歌の伝統―七と五の詩学

日本詩歌の伝統―七と五の詩学


 ちょっとおさらいをすると、使っていい言葉や歌っていいテーマを厳しく制限した和歌は、中世(鎌倉〜室町)も近世(安土桃山〜江戸)に近づくにつれ、その厳しさの故にバイタリティを失ってしまった。
 それはそうで、和歌を幼い頃から“当然の教養”として身に着けた公家は別として、武士や農民、町人からすれば、「そんな言葉はイケマセン」「そんなことを歌ってはナリマセン」「あれ、破廉恥な」とやかましい和歌は窮屈に過ぎたろう。


 そんなこんなで、和歌では許されなかった俗語や当世語(要するに、当時の会話の言葉)が連歌に取り入れられるようになった。詩歌に俗語や当世語が混じることは、当時、滑稽だった。


 国語の時間に習ったように、その言葉づかいの滑稽な俳諧連歌の発句(最初の句)を独立させることで、俳句は成立したわけですね。


 昨日も引用したが、


 その滑稽が強みとなって、俳諧に取り込まれた俗語や当世語は、沈滞した「うた」の世界に俗世間の活気を吹き込み、古い約束への気兼ねなしに、のびのびと「当世」の詩を詠む自由をもたらした。


 と、ここまでが昨日の話。


 ま、しかし、言葉遣いが滑稽というだけでは、そのうち飽きられてしまったかもしれない。
 そこに「待ってました!」とばかりに登場したのが、ご存じ、松尾芭蕉先生である。時は元禄のちょっと前。


 川本先生によれば、芭蕉の確立した俳句は基底部と干渉部に分けられるという。


 例えば、


〈草の戸も住み替る代ぞ〉雛の家


 なら、「草の戸も住み替る代ぞ」が基底部、「雛の家」が干渉部。


 基底部は、大げさな言い回しや意外な言い回しで、言葉の面白さを感じさせる部分。読む人、聞く人に「おや?」と思わせるわけですね。
 しかし、基底部だけでは「何だか面白い言い方」というだけで、何を言いたいのかよくわからない。


 それに干渉部(上の例なら「雛の家」)をくっつけて、句に意味を与える。句の方向づけを果たすわけです。


 例えば、


〈山里は万歳遅し〉


 という基底部があったとする。


 万歳は(まんざい)は、三河万歳とかの万歳。二人一組で「おめでとォーございます」とやって来て、わっと騒いで去っていく。正月に付き物だったそうで、かつての染之助・染太郎はポジションとしてまさにコレでしたね。


〈山里は万歳遅し〉。


 つまり、「へんぴな山里には正月に付き物の万歳が来るのが遅い」。
 いっそ、今風に「へんぴな山里には正月に付き物の染之助・染太郎が来るのが遅い」と言ってもいい(今風でもないか……)。


「山里」と「万歳」と「遅し」、あるいは「山里」と「染之助・染太郎」と「遅し」は意外な取り合わせで、「おや?」と思わせる。


 しかし、これでは何を訴えたいのかわからない。
 染之助・染太郎を今か今かと待ちわびているのか、染之助・染太郎がなかなかやってこられない山里のへんぴさを厭っているのか、染之助・染太郎が来ない=冬がまだ続いているという意味なのか、はたまた染之助・染太郎は最近鼻が高くなってこんな山里は軽視しやがる、と怒っているのか。


 そこへ干渉部として「梅の花」を持ってくる。


〈山里は万歳遅し〉梅の花


 梅の花――美しく、いい香りのする花。冬の寒さがゆるみ、春が来た喜びを象徴する花でもある。


〈山里は万歳遅し〉に「梅の花」がくっつくことで、へんぴな山里の人々が、長い、寒い冬が終わるのを今か今かと待っていた。ある日、ほっと寒さがゆるみ、梅の花が咲いた。お、ようやっと染之助・染太郎、じゃなかった万歳もやってきて、陽気に騒ぎ始めた。ようやっとの春だわいな、めでたいなぁ、めでたいな、と、そういうような風景が見えてくるわけです。


 なお、川本先生はもちろん、染之助・染太郎なんて持ち出していないので、念のため。


 つまり、基底部は読む人の注意を引きつけ、言葉遣いの面白みを味わわせる部分。干渉部は句全体をまとめるというか、句の意味を決定づける部分。この二つの組み合わせで(少なくとも芭蕉スタイルの)俳句は成り立っている。


 干渉部が変われば、句の意味もがらっと変わる。以下は、川本先生の挙げている例ではなく、わたしの勝手な遊びなのだけれども、


〈隣は何をする人ぞ〉


 という基底部があって、


秋深き〈隣は何をする人ぞ〉


壁の穴〈隣は何をする人ぞ〉


 では、全然意味も感興も、ついでに個人的趣味も違ってくる。


行く春を〈近江の人と惜しみける〉


 は情趣に溢れるけれども、


外来魚〈近江の人と惜しみける〉


 では、やはり句としては下種になる。


一家に遊女も寢たり〉萩と月


 は、かすかに生なふうもありながらも、「萩と月」によって端正な一幅の絵のようにまとまっている。その昔の白拍子のイメージも重なるかもしれない。
 逆に言うと、端正なイメージのなかに、そこにいる旅行く人々の息づかいを感じさせる、とも言える。


 これが、


一家に遊女も寢たり〉起きたりだ


 では、まあ、ダメダメであろう。


 とまあ、「俳句の詩学」はそういう話なのだけれども、面白いので、この話、もうちょっとだけ続けます。

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「今日の嘘八百」


嘘六百四十八 私は「トラケッケタラマチャッチャリラーホラホヘー」という言葉の著作権を主張する者であります。