日本詩歌の伝統〜俳句の詩学〈1〉

 昨日の続きで、川本皓嗣著「日本詩歌の伝統」の話。今日は、そのうちの「俳句の詩学」。


日本詩歌の伝統―七と五の詩学

日本詩歌の伝統―七と五の詩学


 警句・格言の類を別にすれば、詩の形式として、俳句の十七文字(十七音節)という短さは、世界的にかなり珍しいという。そんな短い詩、つまりロクな数の言葉を使えない詩が、何百年にも渡って多くの人によって作られ、鑑賞されてきた、という事実には驚くべきものがある。


 川本先生はちゃんとした学者なので、だから日本は素晴らしい、ニッポン・バンザイなどという安直なことは言わない。あくまで世界中に存在する詩というものの、表現の可能性のひとつとして、俳句を捉えているようだ。


 あのですね、いきなり脱線で恐縮だが、簡単にニッポン・バンザイを唱える人々は、いったいどのくらい深く日本の文化や、他の社会の文化のことを理解しているのだろうか。実は、“ニッポン”の衣を借りて、卑小な己のコンプレックスをどうにかしようとしているだけではないか。


 ま、安直な人は安直なだけに、自分では日本の文化を理解した気分になって喜んでいるだろうから、この手の嫌味は通じないだろうけど。


 エー、人を蹴落とす暗い喜びデシタ。どうもスミマセン。


「俳句の詩学」は、俳句が五七五のたった十七文字で、どうやって複雑微妙な感覚を伝えるのかを説き明かそうとする。「日本詩歌の伝統」のなかでは、この「俳句の詩学」が一番面白かった。


俳諧」の「諧」には、「諧謔」という言葉もあるように、おどける、たわむれる、という意味がある。「俳」にも同じような意味があるという。


 わたしは以前から俳句について、「そんなにおどけてるかねえ」という疑問を持っていた。


 いやまあ、小林一茶の「痩蛙まけるな一茶これにあり」とか、「ともかくもあなた任せのとしの暮」なんていうのはおどけているように感じるけれども、松尾芭蕉が「むざんやな甲の下のきりぎりす」をおどけて作ったとしたら、甲の昔の持ち主も浮かばれまい。


 昨日も書いたように、平安〜中世の和歌というのは厳しい約束事で縛られていたようだ。


 長くなるけれども、「俳句の詩学」から引用。


 『古今集』以来の輝かしい王朝和歌の伝統と、そうした伝統をほとんど絶対視するまでに恋い慕い、そのすべてを温存しようとした中世の和歌・連歌の流れとが、近世の詩人に残したもの――それは、選びに選びぬかれた一群の詩語と、細部まで厳密に規定されたその連想の網の目、そして、むしろ秘儀と呼ぶのがふさわしい、手の込んだ手法によるがんじがらめの拘束だった(事実、歌学は父子相伝、師弟相伝の秘儀だった)。
 いわゆる歌ことばの取捨選択は、当初から、ひたすら抒情の純粋化をめざして行われてきた。これも恐らく他のどこにも比類のない、和歌と連歌の徹底した抒情への傾斜は、政治や経済、社会や歴史にかかわる雑多な事象はおろか、ふだんの飲み食いや他人とのいさかい、あるいはユーモアと笑いをさえ、「俗」なものとして排除する(「君が代」の太平をことほぐ種類の歌を、政治詩と呼ぶわけにはいくまい)。その結果、「やまと歌」にふさわしい素材として認められたのは、何よりも四季の自然とつらい恋、それから人生をめぐるしみじみとした物思い、別離と旅情、そして信仰と祝賀といった、ごく少数のテーマと、やはりごく限られた歌語のグループである。


 このことはわたしも不思議に思っていた。まあ、和歌については白痴に近いのだけれども、四十年生きてきて、これまでにぶつかった古い和歌に、例えば、孫と遊ぶ喜びとか、大怪我した痛さとか、他人に対する憎しみを歌ったものに出くわした覚えがない(色恋のうえでの恨み節は別)。


 どうして和歌がそういう「抒情の純粋化」に向かったのかは、川本先生も書いていない。


 で、ですね、そういうふうにテーマと言葉が厳しく制限され、しかも歌の組み立て方が秘儀のようなものになって、父子相伝、師弟相伝などという窮屈なことになると、和歌がどうなるかというと――廃れていくわけです。


 和歌は少なくともごく一部の人のものとなり、大して注目されなくなった。ひとつには、子どもの頃から基礎教養として歌詠みを学ばされる公家が零落して、基礎教養として切腹のやり方を学ばされる乱暴武家がのしていったせいもあるのだろう。


 しかし、人々に詩歌を作りたいという欲求はある。窮屈な言葉遣いや、ややこしい決まり事の学習は遠慮したいけれども、詩歌の世界に自分を解き放って遊びたい欲求はある。
 清酒がダメならどぶろくでも、てなもんだ。違うか。


 時代がそういうふうになってきて、じゃあ、と出てきたのが「俳諧」、ということのようだ。


(……)俳諧の普及にもっとも力のあった、江戸初期の松永貞徳の説明では、百句なら百句の連歌(百韻という)のすべての句に「俳言」を含むものを、俳諧連歌という。俳言とは要するに、和歌に許された以外のあらゆる語、つまり俗語や当世語、漢語、そして仏教語や外来語などを指す。純粋な雅語の文脈に俗語が混じること、それ自体がすでに暴挙であり、冒涜であり、したがって滑稽だった。


俳諧」のおどけ、たわむれ、というのはそういうことだったようです。


 例えて言えば、高校野球の開会式の選手宣誓で、


「宣誓。我々選手一同は高校野球精神を尊重し、正々堂々、最後まで、全力でプレーすることを誓っちゃうのよ」


 と言ったり、大相撲の千秋楽最後の一番で行司が、


「番数も取り進みましたるところ、かたや白鵬白鵬、こっちが朝青龍朝青龍、この一番にて千秋楽なのよね」


 などと言ったりしたら、滑稽なようなものだろうか。


 そうやって、「和歌に許された以外のあらゆる語」が俳諧に取り込まれた結果、どうなったかというと、


 その滑稽が強みとなって、俳諧に取り込まれた俗語や当世語は、沈滞した「うた」の世界に俗世間の活気を吹き込み、古い約束への気兼ねなしに、のびのびと「当世」の詩を詠む自由をもたらした。


 というわけで、またしても長くなってしまったが、まだ「俳句の詩学」の前段、というか、せいぜい前置きぐらいなのよね。


 この後、俳句界のスーパースター、松尾芭蕉先生が登場して、俳句の根本的な手法を確立します。まずはこれ切り。

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「今日の嘘八百」


嘘六百四十七 今、日本で、老いの問題を最も鋭く表現している芸人は、萩本欽一である。