意志と精神

 もの凄いタイトルを書いてしまい、自分でも笑ってしまう。しかし、大した内容にならないであろうことは保証する。


 最近、とみに思うのだが、人間、自分の意志で自分を動かしていると考えるのは、大変な思い違いではなかろうか。


 例えば、包みをあけてキャンディを取り出し、包みをゴミ箱に捨てる。このとき、「よし、包みを捨てよう」などといちいち意識することは、まずない。ほぼ自動的に捨てる。そこには、意志らしきものはほとんどない。


 年をとってくると、この自動化が進む。
 駅の改札を通ると、日曜日なのに、つい会社のほうに向かう電車に乗ってしまう。小用を足そうと便座をあげ、なぜだかそこに座ってしまう。命を助けた相手に「ありがとうございました!」と礼を言われて、「こちらこそ!」と謎の返事をしてしまう。女性と見ると、思わず抱きついてしまう。


 否定的な見方をすると、脳の回路が減っていっているのかもしれないが、肯定的に見ると、整理されて、余計な回路がなくなり、必要な回路だけが残されていくのかもしれない。


 もっとも、包みをあけてキャンディを取り出し、キャンディのほうをゴミ箱に捨ててしまったりするから、回路の整理もあまり当てにはならない。


 意志というのは頭の、自分で把握できるところ(意識)に浮かんでくるものであって、実は人間のたいていの行動は、自動化された、無意識の部分によるものじゃないかと思う。


 もうひとつは、自律神経方面の話で、ご承知の通り、心臓がドキドキする、赤面する、冷や汗をかく、なんていうのは、なかなか自分でコントロールできない。


 わたしは胃腸が弱いので、度々、痛感するのだが、きゃつらは、基本的に大脳の指示とは関係なく、勝手に暮らしている。
 主張もはっきりしていて、「ヤダ!」、「出すぞ!」、「出さない!」となると、まあ、めったなことでは折れてくれない。


 尾籠な話で恐縮だが、意志のほうでできるのは、肛門に頑張ってもらうとか、出かかったゲロを無理に飲み込むとか、あとはせいぜい、口笛なんぞ吹いて、あやしたり、注意を他に向けさせたりするくらいではないか。


 腸管のまわりは非常に多くの神経で覆われていて、「第2の脳」と言われることもあるそうだ。恐るべきことに、脳からの信号はもちろん、交感神経・副交感神経からの信号を断ち切っても、勝手に動くという。


 自分は「自分ひとり」と考えるのは実は間違いで、腸と体の他の部分が共生している、あるいは、他の内臓・筋肉・血管・皮膚も独立の存在で、脳と共生関係にある、と考えることもできるんじゃないか。


 話が飛躍してしまったが、何を言いたいかというと、精神とは何なのよ、ということだ。


 アスリートについて、しばしばメンタル面とか、精神力とかが語られる。


 では、精神力のあるアスリートというのは、自分の意志で、自律神経の動きとか、腸管のまわりの神経の働きをコントロールできる(抑え込める)人のことなのか。それとも、意志と自動化されている行動以外の部分が鈍重な人なのか。


 あるいは、ストレスについてよく語られるけれども、あれは要するに、体内の多くの人々(とあえて呼ぶ)が「ヤダ!」、「ヤダ!」、「ヤダ!」、「ヨシトクレ!」と言っているのに、意志が無理を通そうとすることから発生するんじゃなかろうか。


「意志が弱い」なぞと悪口っぽく言うことがあるけれども、もしかすると、実は意志ではない部分、無意識や自律神経やなんかが意志より活発ということなんじゃないか。


 話がとっちらかってしまって、何だかわからなくなってしまった。困っている人も多いだろう。無理もねえ。あたしも困っている。

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「今日の嘘八百」


嘘六百四十三 えーと、今日の文章は腸の人が書いたので、文句があったら、そちらへ。