浄瑠璃

 ここ数ヶ月、何度か歌舞伎を見る機会があった。


 わたしは歌舞伎ファンではなく、興味を引くものがあれば見に行ってみようか、という程度だ。
 歌舞伎独特のセリフ回しにも耳が慣れていないので、「今、何て言ったんだ」となることがよくある。


 その程度の理解力だからこそ思ったことを書く。


 十二月の歌舞伎座で「ふるあめりかに袖はぬらさじ」という演目があった。
 玉三郎勘三郎獅童七之助、チョイ役で海老蔵という豪華な顔ぶれで、芸者・お園を演じる玉三郎が特に後半、素晴らしかった。


 元々は文学座杉村春子の当たり役だったそうで、歌舞伎座のほうも歌舞伎というより、新劇を歌舞伎役者達が演じた、というのが正確なところだろう。
 役者達も、歌舞伎の枠から解放されてのびのびと演技しているように見えた。もっとも、そう感じたのは、単にわたしにとって、歌舞伎より新劇のほうが日常の言葉、所作に近くて馴染みやすいからかもしれない。


 同じ十二月の歌舞伎座で「菅原伝授手習鑑」の「寺子屋」があった。
 有名な作品だが、これはいかにも古い。


 立川談志が「あなたも落語家になれる」で、その古さをこんなふうに書いている。


例えば『寺子屋』のなかからあえてテーマを探すとすれば、自分の主人のためにわが子の首を斬ってさし出す忠義ということになる。これを主題にし、客に訴えたら、大衆は怒るだろうし、主婦連はシャモジを持って歌舞伎座を取りまくかも知れない。
(中略)
寺子屋』でわが子を喪う悲しみは理解できても、その子を主人の子どもの身替りにすることに共感はない。ないどころか、グロテスクであり、話題にもしたくない。それを見せ、感動させるのが芸だというなら私は感動しないからそれを芸とは認めない。なら仕方なくテーマは別として様式美でも見せるしか方法はあるまい。


あなたも落語家になれる―現代落語論其2

あなたも落語家になれる―現代落語論其2


 同感である。加えるなら、わたし程度では、浄瑠璃が何を言ってるのか、わからない。


 歌舞伎の浄瑠璃は音楽であると同時に、筋立てや状況、心理の説明の役目も果たしている。
寺子屋」は有名だから、わたしも筋書きは知っていたけれども、でなければ、1時間弱の間、一体、何が起きているのかよくわからなかったろう。


「わからないのは不勉強だからだ」とか、「そのうち、だんだんわかってくるようになりますよ」という意見もあるだろう。


 しかし、わたしがわからないように、おそらく、世の9割以上の人は浄瑠璃の語りについていけない。頑張ればついていけるという人も、ちょっと役者の動きに目をとられると、わからなくなるだろう。自然に耳に入ってくるナレーションのようなわけにはいかないのだ。
 そして、何度もお金を払って、わかるようになるまで通い詰める根気も興味も、たいていの人にはないと思う。


 放っておくと、歌舞伎は現代とは無関係な、一部の好事家だけが好む、小さな世界に縮小していく可能性があると思う。そうなったら、収入の減った歌舞伎は多くの役者も仕掛けも維持できず、随分と地味になるか、安っぽいものになるだろう。


 例えば、中村勘三郎コクーン歌舞伎平成中村座など、さまざまな公演の形を意欲的に行っているのは、そういう危機感を抱いているから、そして歌舞伎にバイタリティがほしいからなんだろうと想像する。


 それでも、役者のほうはまだセリフの自由度が高い。言葉を現代に適度に合わせるなど、やりようはいろいろあるかもしれない。
 浄瑠璃は言葉と節が一体になっていて、現代に合わせるのは難しそうだ。


 またまた勘三郎になってしまうが、11月に「芸阿呆」という演目があった。


 元は、明治の義太夫の名人、三代目竹本大隅太夫の生涯を、八代目竹本綱大夫が語った昭和三十年代のラジオ録音。
 その録音に合わせて、勘三郎がセリフ一切なしの素踊り、というか、パントマイムで演ずる、という一風変わった試みだった。


 1時間近く、語りと振りのみだったが、もった。もったどころか、大変に面白かった。


 一応は義太夫節浄瑠璃の一種)の新作、ということになっているが、節が入るのはごく一部で、竹本綱大夫の上方言葉の素の語りが続く。
 言葉は現代語なので、よくわかる。わかれば、面白い。


 思うに、浄瑠璃を何とかしなければ、歌舞伎の今後はキビしいのではないか。
 言葉ももちろんだが、節も、現代の一般人に馴染むようなものに調節していく必要があるように思う。


 それは大変な難事だろうし、ほとんど浄瑠璃の破壊になってしまうのかもしれないが、誰かがやらなければいけない仕事なのではないか。
 そうでなければ、役者を中心とした歌舞伎は、浄瑠璃の少ない(一般人にもわかりやすい)演目を主にして、浄瑠璃をせいぜい古典への敬意という形で添え物にしていく気がする。


 しかし、自分じゃろくろく言葉を聞き取れもしないくせに、ナレーション兼挿入歌という歌舞伎における浄瑠璃のやり口を捨てるのは、もったいないとも一方で思う。

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「今日の嘘八百」


嘘六百三十六 しょうがねえ、おれがやるか。「しょ〜ぅ〜がっこォ〜〜う〜〜のォ〜〜ぅ、こぉ〜〜おぉぅ〜てぇ〜えいでェ〜〜」