わたしには、嫌いというほどではないが、いささかギワクのマナザシで見る言葉があって、例えば、「感性」というのがそうだ。
いつ頃生まれた言葉かは知らないが、割に最近なのではないか。あまり古い文献に出てきそうなふうがない。
例えば、平安時代のやんごとなき人々が歌会か何かで、
「いと高き感性でおじゃる」
なんていう会話を交わしたとは思えない。
「カンセイ」は漢語の音だけれども、中国の古い文献に出てきそうな感じもしない。日本産の、比較的最近の造語なのではないか。知らんけど。
わたしがなぜ感性という言葉をギワクのマナザシで見ているかというと、薄っぺらく、うさんくさいにおいがするからだ。
「自分探し」にも通じる薄っぺらさというか、OL頬杖的というか。
例えば、
なんていう言い方はしっくり来ない。
この書には、弘法大師の感性の全てが注ぎ込まれている。
という文があったとしたら、書いたやつの正気を疑いたくなる。
感性という言葉は、地に足が着いていないからだろう。
軽薄な言葉なのだが、ケーハクであることのよさもない。
たぶん、せいぜい、センスがいいとか、コジャレているとか、しっかりした筋の通っていないフワフワ感覚、ということを、いささかカッコつけて言いたいときに「感性」という言葉でゴマカすのだと思う。
その証拠に、「十代のみずみずしい感性」という言い方はぴったり来るが、「六十代の腰の据わった感性」という言い方には違和感がある。「四十代のどんよりした感性」は、ま、もしかしたらあるかもしれないが。
感性という言葉は、本質に欠ける。
世間様の目はゴマカせても、このワタクシ、目くじら三十郎――もっとも、もうすぐ四十郎ですが――の目はごまかせませぬ。
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「今日の嘘八百」
嘘二百五 人類が長い歴史の中で培ってきた「若く見せる」技術の全てが、森光子に注ぎ込まれている。