昨日、見立てる笑いは東京のものじゃないか、と書いた。
ま、しかし、「見立てる」ということ自体は、東京、江戸に限ったことではなく、古来、盛んに行われてきたようだ。
和歌については白痴だが、学校時分に習った記憶では、昔の人はやたらと見立てては悲しい、悲しいと泣きながら暮らしていたらしい。
その気を見せておいてつれないあなたの仕打ちはまるで<野分の風>のようであることよ、だのなんだの。
<>の部分を入れ替えれば、いくらでも作れる。
いろいろと身近な物で見立ててみる遊び、なんていうのもできるかもしれない。
例えば、わたしの目の脇に、今、乾電池が見えた。これを使って、
あなたとわたしは乾電池のようなもの。プラスとマイナスが惹かれ合っているのに、永遠に一緒にはなれないことであるなあ。
とかなんとか。
これを五七五七七にすらっとできれば歌人になれるんだろうけど、そうは問屋が卸さないのが、この世のままならぬところであることよ。
目の前には缶コーヒーの空き缶もあることよ。
あなたとわたしは缶コーヒーの空き缶だ。眠れぬ夜を過ごしたものなのに、今ではすっかり空虚な気分だ。
イケるねー。
腕時計も見える(しかし、散らかっているな)。
あなたとわたしは腕時計のようなものだ。
腕時計のようなものだ。
腕時計のような
腕時計の
腕時計
時計
カチコチ……
まあ、時にはうまくいかないことだってある。
世の中には磁力の強い言葉、何となく“大したこと”、“大した人”に見せかけられる言葉があって、例えば、「人生」とか、「人間」、「恋」なんていうのがそうだ。
これらも見立ててしまう。
人生とは電卓だ。ちょっとした過ちで、ゼロに戻ってしまう。
人間はデジカメだ。半端な思い出ばかりがたまって、最後には全て消されてしまう。
ふと思い出した恋は昔のアイドル歌謡。今となっては馬鹿らしいやら、気恥ずかしいやら。
皆さんも、気が向いたら、いろいろ見立てて遊んでみてはいかがでしょうかであることよ。
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「今日の嘘八百」
嘘百九十九 「性悪説」は、しょうわるせつと読む。