昨日の朝日新聞夕刊にこんな記事があった。


 「寅さんはいま留守にしてます」
 帝釈天の参道入り口に近い団子屋「高木屋老舗」。5代目おかみの石川光子さん(84)は、「寅さんいる?」と客からの粋な問いかけがあるたびに、こう答える。


「粋」という言葉を間違って使っているように思う。
 別に記事の揚げ足取りをしたいわけではない。この例に限らず、粋ということを勘違いしているケースがたまに見られる。


 じゃあ、粋とは何かというと、感覚的なことなので、説明がなかなか難しい。


 戦前の哲学者の九鬼周造は「『いき』の構造」(ISBN:4000070371)の中で、「運命によって<締め>を得た<媚態>が<意気地>の自由に生きるのが<いき>である」と言っている。


 ――などと書くと、何だか哲学や九鬼周造に詳しいみたいだが、哲学については古今東西まるでパーである。九鬼周造の本も、これ一冊しか読んだことがない。


 いきなり、「運命によって<締め>を得た<媚態>が<意気地>の自由に生きるのが<いき>である」と言われても、たいがいの人が困るだろう。わたしも困っている。


 困りながらも意気地の自由で続けるが、ともあれ、諦め、媚態、意気地、この三つが揃わないと粋ではないようだ。


 諦めの感覚、この世はどうにもならんもんだという感覚がないと、刹那的な美しさが生まれない。チャック・ウィルソンやアーノルド・シュワルツェネガーみたいな人物(例が古いか)がいくら色目を使っても、粋ではないのだ。


 媚態――つまり、色気がないとそもそも粋ではない。


 そうして、意気地がなければ、ただだらしなく「ねえ」とすり寄っている、ナヨナヨ男になってしまう(伊勢屋の若旦那タイプである)。


 とまあ、そういうことではないか。


 最初の新聞記事に戻って、「寅さんいる?」と訊く客は粋だろうか。


 粋ではない。それは単に、冗談を言っているだけだろう。
 好意的にとらえても、多少気のきいたことを言った、というに過ぎない。
 下手すると、オヤジギャグ的な野暮にさえ、なりかねない。