走馬燈

 死ぬ間際に、「人生が走馬燈のように繰り返された」なんていう話をよく聞く。


 まあ、実際に死んだ人の話というのはなかなか聞けるものではないから、おそらくは死にそうになった人の体験談なのだろう。


 それにしても、「走馬燈」。


 たとえ話というのは、普通、わかりにくいことを、わかっている別の何かを使って、説明するものだ。


 しかし、走馬燈を実際に見たことがある人って、どのくらい、いるのだろうか。


 わたしが何となく想像する走馬燈というのは、(合っているかどうか知らないが)帯状の紙か何かに馬の走る姿が分解写真のように切り抜いてある。真ん中に蝋燭かランプが置いてあり、帯を回すと、アニメーションのように馬の走る姿が見える、というものだ。


 生で走馬燈を見たことはないが、テレビか何かで見たのだろうか、そんなイメージを持っている。


 いろいろ調べてみたら、走馬燈というのはこういうもののようだ。リンク先の右側の写真をクリックしていただきたい。


中國古代機械工程 - 走馬燈


 中国語はわからないのだが、他のページで読んだ説明と合わせると、まず枠は二重になっている。外側の枠は無地の紙で、内側の枠に走る馬の絵が描いてある。
 内側の枠の上は風車になっていて、中の灯火による上昇気流でくるくる回る。そうするとアニメーションの原理で、馬が走っているように見える、と、そういうからくりのようだ。


 よく考えたものですね。風流で、なかなかよいです。
 最近のもので言うなら、「人生がGIFアニメのように繰り返された」というところでしょうか。こっちはあんま風流じゃないですね。


「回り灯籠」という別名もあって、馬以外の絵を動かすときはこっちの呼び方をするらしい。


 死ぬ間際や、思い出方面で「走馬燈」のほうの言い方をするのは、たぶん、そっちのほうがきれいな印象があるからだろう。
 これが「走人燈」か何かで、グリコの300mの人が走るのでは、今ひとつ美しさに欠ける。


 わたしの想像は当たらずとも遠からずといったところで、風車の仕掛けまでは知らなかった。


 ともあれ、これで、死に臨んで、「で、結局、走馬燈って何だったんだー?!」と頭を抱えずに済む。


 しかし、ひとつ、新たに心配ができた。


走馬燈のように」ということは、死ぬとき、わたしのイタくて恥ずかしい人生を、何度も何度も繰り返し見せられるのだろうか。


 なかなかにキツいものがある。


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「今日の嘘八百」


嘘百八十九 実はね、今、あなたが体験しているのが臨死の走馬燈なんですよ。故障して遅くなっただけで。