昨日の続き。
人々が分かち持っている美人の基準って何なのだ、どういうふうに決まるのだ、という話だ。
昨日は美人について水平的な見方をしてみて――コムズカしくて、エラソーな言い草だね――つまり、美人像の歴史的な移り変わりについて考えてみて、例によって、知識の圧倒的不足により、断念せざるを得なかった。
で、水平と来たら垂直と出るのが、中学校数学で教わるパターンである。
美人についての垂直的見方というのもできる。同じ時代のさまざまな美人像、美人の典型について考えてみるやり方だ。
美人の基準は、社会によってもだいぶ違う。
例えば、ハリウッド映画に出てくる東洋女性は、多くの場合、ツリ目だ。扱われ方からすると、どうも、美人であるらしい。「チャーリーズ・エンジェル」や「キル・ビル」のルーシー・リューなんかが典型だ。
それを不満に思う日本の女性は、結構、多いらしく、わたしのある知り合いなぞ、「なんであんなツリ目が出てくるのかしら」と、まるで自分のほうが上だ、と言わんばかりの口調で文句を言っていた。
この件についてあまり深追いすると身に危険が迫るのでやめておくが、まあ、こういうことは美人についての基準が違うからこそ、起きるのだろう。
世界を相手にするととても手に負えないので(例えば、アンダマン諸島における美人の基準なんて、知るよしもない)、話は漠然と日本社会に限っておきたい。
またまたコムズカしい言い方になるが、現実世界の美人と表現世界の美人というのもまた違うようである。
例えば、巨大な目をしたアニメ絵の少女達。
わたしには彼女達が奇怪に見えてしょうがないのだが、あれは美人、という一般の了解があるようだ。
あれを美人と感じる人も、おそらく、現実にあんな顔の輪郭で(縦と横が同じくらいか、下手すると横のほうが長いのだ)あんな目玉をした女性が現れたら、腰を抜かすだろう。まず、美人とは受け取るまい。
ああいう絵は、例えば、目がぱっちりしていることの誇張表現なのか、それとも、現実世界とは無関係の価値基準に基づいているのか、興味がわく。
わたし自身は、誇張にしてはやりすぎではないか、と思う。もう、あれでひとつの世界ができあがっていて、現実世界からは独立しているように感じる。
が、そこらへん、なかなかどうも、わたしの手には負えない。もう少し頭のスルドい人に、研究してもらったほうがよさそうだ。
長くなったので、ちょっと一休み。