貧乏神

 貧乏神と呼ばれる神様がいるが、あの方のモチベーションは、いったい、何なのだろうか。


 あの方のすることはひとつしかない。人を貧乏にする、というものだ。


 狙った相手から金を巻き上げるわけではなく、ただただ貧乏にするだけである。


 貧乏神を想像してみてください、と言ったら、たいていの人が、いかにもみすぼらしい、痩せた貧相な姿を想像するのではないか。
 してみると、貧乏神本人も貧乏であるらしい。


“巻き添え”ということであろうか。
 いじけているというか、ねじくれているというか、実に困った方である。


 日本の神様(といっても、外国伝来の神様も多いようだけど)には、祟りをなす神様が多い。


 暴風雨、日照り、干ばつ、それらの結果としての凶作、疫病、地震といった災いをもたらす。


 神社は、御利益を願う場であるとともに、祟りをなさぬように願う場でもある。


 しかし、貧乏神の場合はどうなのだろうか。
 貧乏神を祀っている神社というのは聞いたことがない。
 いや、どこかにあるのかもしれないが、少なくともわたしは知らないし、あまり有名な神社はないと思う(間違っていたらごめんなさい)。


 理由はたぶん、御利益がない、ということがひとつだろう。


 御利益というのは、神様にゼロからプラスに持っていっていただくことだ。受かりそうにない学校に合格するとか、お店の客がどんどん増えていくとか。
 でもって、祟りを防ぐ、あるいは鎮めるというのは、マイナスからゼロに持っていく作業である。


 貧乏神を祀る場合は、後者のマイナスからゼロ、という神事しかなく、気分としてネガティブ一方であることを否めない。おまけに、何だかみみっちい。
 もし貧乏神の神社があるとしても、運営する側には、今いち張り合いがないだろう。


 一方、神社に行く側からしても、柏手を打って「貧乏になりませんように」と願うのは、消極的だ。
 だったら、大黒様や恵比須様に「商売繁盛しますように」と願ったほうがいい。そっちのほうが気分が上向きになるし、お賽銭も活きる気がする。


 考えてみれば、貧乏神は、大黒様や恵比須様のように、「様」すらつけてもらえない。貧乏神、と呼び捨てにされている。人々から敬われていないのだ。


 そんなこんなで、たとえ貧乏神を祀る神社があっても流行らず、賽銭が入らないので神主も貧乏になって夜逃げし、社は荒れ果て、貧乏神の貧乏はさらにひどくなる、と、そういう悪循環なのではないか。


 なるほど、貧乏神が“巻き添え”を図るのは、そういう理由だったのか。ある意味、この世の成り立ちの犠牲者である。


 こんなこと書いたら、貧乏神に祟られるのかな。


 わっ。あなた、どなたですか。


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「今日の嘘八百」


嘘百七十八 杜子春は仙人の既得権益をめぐる物語である。