くいちんマスターに限らず、松下嬢は面白い。
上でリンクを張ったページの下のほうをご覧いただきたい。
「競技を始めたきっかけは?」の項に、「親の強制入部。」とある。
「応援しているファンへ一言」には、「親不孝でごめんなさい。でもやってみせる。」とある。
天下のJOCのサイトで「応援しているファンへ一言」と来たら、「一生懸命がんばります。応援よろしくお願いします」とかなんとか、当たり障りのないことを書くのが普通だと思う。
優等生的に振る舞ったほうがよい、あるいは、振る舞っておけばよい、という空気のようなものがあるだろうからだ。
しかし、松下嬢は「親不孝でごめんなさい。でもやってみせる。」である。強い言葉だ。
ここでいきなりわたし個人の話になって恐縮だが、わたしは常々、生命力のある文章を書きたいと思っている。
わたし本人はミキサーの中でだらだら回る生コンのように生命力に乏しい人間だが、文章だけは生命力のあるものを書きたい。
極端にいえば、何について書くかはどうでもよくて、文章から生命力さえ感じてもらえれば満足だ、とすら考えている。
「親不孝でごめんなさい。でもやってみせる。」
初めて見たとき、ちょっと感動した。こんなふうに生命力のある文章は、わたしには書けない。
なぜ、「ごめんなさい」と「やってみせる」の間に、「でも」が入るのか。
言葉を補うなら、「親不孝でごめんなさい。(ダメな私だけれども、)でも(アテネではどデカいことを)やってみせる。」ということなのだと思う。
ただ、そんなふうにダラダラと書いてしまっては、生命力がなくなる。やはり、ここは「親不孝でごめんなさい。でもやってみせる。」でいいのである。
松下嬢は、その場の勢いで書いたか言ったかしただけなのかもしれない。しかし、ただ者でない予感がする。
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「今日の嘘八百」
嘘百六十一 ネットで右寄りが優勢になるのは、右側のほうが短い文章で済むからである。