快楽の一次元的視覚化について

 コムズカしげなタイトルをつけたが、なに、例によって、その場の思いつきで「コムズカしくしちゃるけん」と書いてみただけのことだ。


 自慢ではないが、ではなくて思いっきり自慢なのだが、煙草をやめてから随分になる。


「煙草をやめてから」といっても、別に、わたしが煙草だったわけではない。


“俺が昔、煙草だった頃、おやじはタバスコで、おふくろはオオバコだった。おまけに、家は百葉箱だった。わっかるかなァ〜、わっかんねえだろうなァ〜。♪シャバドゥビィ〜”


 ナウなヤングのみなさんにはわっかんねえだろうなァ。人生経験の違いというものよ。♪シャバドゥビィ〜。


 やめたからこそわかるのだが、喫煙者というのはニコチン中毒である。ニコチン依存症ではない。
 別に煙草にたよっているわけではなく、体内に一定量のニコチンがないと不快になるだけの話だからだ。


 煙草は麻薬だ。しかも、快楽の少ない、つまらない麻薬である。
 喫煙者は、しばしば自分のことを愛煙家と呼ぶ。
 喫煙者が愛煙家なら、ヘロイン常用者は愛ヘロ家で、覚醒剤常用者は愛シャブ家である。まあ、あながち間違いでもないか。


 やめたからこそわかるのだが、煙草に、確かに快楽はある。しかし、それは体内のニコチンが不足する苦しさを、ニコチンを補給することで解消する快楽だ。
 数値にすると、マイナスの値からゼロに戻る快楽である。


 やめたからこそわかるのだが(しつこいな)、グラフにすると、こういうことだ。



 横軸は絶対的な数値、ま、客観的に見た値である。
 煙草の快楽というのは、あくまで相対的な快楽である。マイナスからゼロに向かうのも、まあ、上昇(快楽)ではある。


 酒と比較してみよう。



 あくまで、わたしの場合は、である。飲む人の体質にもよる。


 ただし、酒も、アルコール中毒になり、体内にアルコールがないといてもたってもいられない、となると別だ。煙草と同じ、マイナスからゼロ方向に至る快楽になってしまう。


 煙草の快楽に似ているのは、つくすタイプの女の幸せである。



 ハタから見ると、男から随分ひどい目に合わされている。しかし、どうしても別れられない。
 いわば、ど演歌の沈殿物のような女。昨年までのマリーンズ・ファンのようなものだ。


 そんな女が、男にちょっと優しくされると、非常な幸福を感じる。全体的に見れば、ひどい状況は変わらないのだけれども。


 業田良家の「自虐の詩」(ISBN:4812401267)はそうした機微を描いた名作である。そうして、最後には――いや、これはやめておこう。


 ビル・ゲイツのような大金持ちを見ると、わたしなんぞは「もういい加減、仕事やめて、遊んで暮らしたらいいのに」と思う。
 しかし、ああいう人は、稼ぐこと、企業間の競争に勝つことが幸せなのだろう。知らんけど。



 横軸は金額である。


 あくまで想像だが、ああいう人は利益を生み出さないと、不安でいられなくなるのではないか。
 そうだとすると、たとえ、ハタから見ると大金持ちで何の不足もないように見えても、本人は案外、キツい可能性はある。


 快楽や幸せとは、煙草に限らず、相対的なものなのかもしれない。


 参ったね。


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