こういうところで「こんな夢を見た」と公表すると、精神分析という魔術によって、心の奥底に抱える不安やら、子供の頃、パパに買ってもらった仔馬が死んでしまったことやら、果てはチンチンのサイズまでバレてしまうらしい。


 だから、本当はうかつなことを書けないのだが、他に何があるわけでもなし。例によって、出たとこ勝負で夢について書こうと思う。
 心得のある人間は、勝手にチンチンのサイズを分析していただきたい。


 どうも、最近、見る夢の迫力に乏しい。
 現実でやっていることとあまり変わらない夢を見る。出てくるのも知った人間ばかりで、仕事の打ち合わせをしたり、あれこれ作業したりする。


 ただ、さすがに夢だけあって、とんでもないミスが発覚して、焦ったりはする。わちゃー、と、慌てているうちに目が覚め、ああ、よかった、となる。
 こう、何というか、全体にセコいというか、スケールが小さい。


 不思議と子供の頃に見た夢はよく覚えている。


 よく見たのは、誰かに追いかけられる夢だ。小学校中を逃げ回って、しばしば下足箱の並んだ玄関(見え隠れしやすい場所である)でクライマックスを迎えた。
 そうして、追いかけてくる相手の正体は不明のままなのである。例えば、実はそれは父母だった、自分だった、となれば、劇的展開だが、夢のほうもそこまでサービス精神旺盛ではない。


 ああいう夢は何だったのか、なぜよく見たのか、と思う。
 別に、そんな切羽詰まった子供時代を過ごしていたわけではないのだが。せいぜい、時々、包丁を振り回す父親に追いかけられたくらいである(嘘、嘘)。


 子供の頃の夢は覚えているのに、中学・高校の頃の夢は何ひとつ覚えていない。そこらへんから、こじんまりとつまんない方向へ行ったのかもしれない。


 そう遠くない昔――二十代から三十代半ば頃だろうか――には、知らない町を歩き回る夢をよく見た。
 何を目的に、ということもない。ただただ、歩き、電車に乗り、また歩き、を続けるのだ。
 夢の中で、自分の家はある。駅の近くの飯屋で食事をしたりもする。ただ、そこも見知った町ではない。そうして、電車に乗って、別のどこかをまた歩き回るのだ。


 不快ではなく、むしろ、物静かながら、ちょっと楽しい夢だった覚えもある。
 ああいう夢も見なくなった。


 知人のMさんは、ドラマチックな夢をしばしば見るそうだ。原子力発電所に忍び込んだり、忍者になって密書を運んだりと、大活劇を演じるのだそうで、羨ましい。


 しかし、まあ、Mさんの夢は別として、人の夢の話を聞かされても困るだろう。
 申し訳ないことをした。もちろん、心から反省はしていない。


▲一番上の日記へ