わたしの文章作法〜その三

 この日記の文章は、たいてい、出たとこ勝負で書いている。


 書き始める前に漠然と「これについて書こう」というのはあるけれども、話の展開、起承転結、結論を決めて書くことはめったにない。


 出たとこ勝負には効用がある。生命力――というと、大げさだな、高揚感が生まれることだ。


 例えば、会話は、お互いにあらかじめセリフを決めて話すわけではない。出たとこ勝負で、相手の言葉、自分の言葉、その場の空気に触発されて、話が進む。
 だからこそ、「話が弾む」という現象が起きる(その裏返しで「話がさっぱり弾まない」ということもある。ヒットの裏返しには必ず凡打があるのだ)。


 映画の「フィッシャー・キング」で、人と話すのが苦手なヒロインに、レンタルビデオ屋の女主人が「会話には生命があるのよ」と諭し聞かせる場面があった。
 印象的で美しいシーンだったが、その会話の生命とは、お互いに出たとこ勝負で話すからこそ、生まれるものだと思う。


 あるいは、サッカーで考えてみてもいい。
 チームの決まりごと、組織的動きというのもあるけれども、ボールが来たとき、選手は出たとこ勝負で動く。どんなふうにトラップして、どっちへどうドリブル、誰へどうパス、どこへどうシュート、なんて、あらかじめ決めておけるものではない。


 チームの決まりごと、組織的動きをベースに、選手達が出たとこ勝負で動き回り、それがいい形で積み重なったとき、サッカーの高揚感は生まれる(反対に、どうしようもなくつまらないクソ試合というのもある)。


 対照的なのが、体操だ。微調整はあるにせよ、あれは基本的にあらかじめ十分に練り込んだ動きを、完成度高く演技するから、美しいのだろう。
 出たとこ勝負で跳馬を跳んでみろ。脱臼、脳震盪、全身打撲。骨の二、三本折れても不思議ではない。


 ここで一息入れましょう。