もはや絶滅してしまった、あるいは絶滅危惧種なのかもしれないが、わたしが中学・高校の頃には、まだマルクス主義を信奉している先生がいた。80年代前半のことだ。
高校の世界史のH先生は、人類の歴史を、原始共産制社会(んなもん、ホントにあったのかね?)から始めるという人だった。
その後も、中国史にしばしば出てくる反乱やら、ナントカ革命やらを全て「民衆」の視点で語った。
フランス革命の授業のときには「残念なことに、私有財産を保障してしまったんですねえ」などと教えていたが、そう言いながらも、本人のポケットには財布が入っていたと思う。
「いっそ、私有財産を放棄しちゃいましょう!」と提案したら、H先生、どういう反応を示したろうか。
ともあれ、あまりに「民衆」、「民衆」と唱えるので、かえって「民衆」なるものが胡散臭く感じられ、H先生の教育方針は少なくともわたしには裏目に出たのであった。
70年頃、学生運動の激しかった当時、マルクス主義は学生(今、50代半ばのオッサン達だ)の間に「正しいもの」としてかなり浸透していたらしい。
わたしは当時、まだ幼児で、オモチャ屋の前で「ねえ、あのロボット、買ってよおおお!」と親にナサケない階級闘争を挑むのに必死だったから、実態はよく知らない。
しかし、(どこまできちんと理解していたかの問題もあるけど)肯定的立場の学生が多かったようだから、おそらく、リクツとしてはよくできたものなのだろう。
90年前後の東欧諸国・ソ連の崩壊で、マルクス主義は決定的に落ちぶれた。
リクツというのは、あまり信用ならないもののように思う。一見、正しいように見えても、抜け落ちている部分があったり、粗い部分があったり、立脚点がそもそもぐらぐらしていたりする。
一方で、何かを考えたり、書いたりするときには、道具としてリクツを使わざるを得ない。
そこらへんの按配が難しい。
直接読んだわけではないが、稲垣足穂は「共産主義、あんなもんは人の心のこと書いてないからあきまへん」というようなことを言ったそうだ。
2005年に生きて、東欧諸国・ソ連の崩壊を知っていると、「なるほどねえ」と思う。
しかし、自分がもし1970年に大学生だったら、どういうふうな議論をしたろうか。案外、マルクス主義を信じてかかる気がする。いい加減なものだ。