「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」というのは、作家・林芙美子の有名な言葉である。
その生涯を芝居にした「放浪記」を森光子が演じ続けてきて、短いどころか、長えのなんの、だが、あれは森光子が花というより、天然記念物の巨木みたいなものだからかもしれない。
そんなことはどうでもよい。
しかし、これから書くことも、おそらくは相当、どうでもよいことになるはずだ。
「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」という言葉は、二通りの意味に捉えられる。
「花」が女を指すのは、まず異論のないところだろう(異論があっても、聞く耳持たぬ)。
ひとつの解釈は、花=女の命は短く、苦しいことばかりが続く、というものだ。
平均寿命からすると男の命はもっと短いが、花というよりペンペン草みたいなものだから、洟も引っかけられないのだろう。ペンペン草のうえに、楽しきことのみ多かりき、とはいかないところが、男のキビしいところだ。
そんなこともどうでもよい。
で、もうひとつの解釈だが、えーと、女の人は怒っちゃいけないよ。
志ん朝が落語の中で言っていたことだが、女は、ある時期、ぱっと美しくなる。
小さいうちは「これ、どこの子? ああ、あそこの。ああ……」と顔を見て、「気の毒にねえ」と言われていた子が、ある時期から「へえっ、これがあの子?!」と驚くくらい、きれいになる。
ま、確かにそういうことがある。そいつはわたしが請け負う。
ところが、その時期が短い。すぐにまた「ああ……気の毒にねえ」に戻ってしまう。
怒っちゃいけないよ。あくまで志ん朝が言っていたことだから。身の危険を感じるから、わたしはここんところは請け負わない。
でもって、「苦しきことのみ多かりき」と来るわけだ。これはキビしい。なんたって、気の毒に戻っちゃったうえに、やたらと苦しくなっちゃうんだから。
ま、どっちの解釈をとるかは、読んでいる人の判断にまかせる。勝手にやっていただきたい。
後者の、「ああ……気の毒に」説のほうを取る場合だが、最近はいろいろと事情が変わってきたようだ。
テクノロジーの進歩というのは恐ろしいもので、化粧品とか、エステとか、あと、他にもあるんだろうけど、こう、さまざまな魔術が開発されたらしい。
つまり、花の命を長くできるようになってきた。
あるいは、花の命を長くというより、花に見せかける、という魔術なのかもしれないが、身の危険を感じるので、ここんところもあまり踏み込まない。
さらには、そのうち、遺伝子工学、なんていうのも導入されることになりそうだ。
なかなか枯れない花。糊屋のババアが花のまま。
いわば、バイオテクノロジーで花の命が長くなっちゃうわけだ。恐るべき時代が来たものである。
苦しきことが増えるか、減るかは知らんけど。