昨日、いつもの出たとこ勝負で「いっそ、植物人間となってずっと眠っているのも楽でいいかもなあ」などと書いたけれども、植物人間というのはそう気楽なものとも限らないらしい。
植物人間というのは、呼吸や消化、分泌などの機能は続いているが、運動や感覚が失われている状態の人を言うらしい。
おそらくはいろいろなタイプがあるのだろう。えーと、断っておくけど、これから書くことは例によって、すげえテキトーだよ。書いたことに一切責任を取るつもりはないので、覚悟しておくように。
そんなに高飛車に構えることはないか。
小説や映画でよくあるのは、ハッと目覚めたら事故から何年も経っていた、というやつだ。「キル・ビル」のユマ・サーマンがこのパターンだった。
この場合は、植物人間である間の意識がない、あるいは少なくとも記憶としては残っていない、ということになる。
一方、インターネットでざっと読んだ程度だが、本人に意識はある、何かを話しかけられたらわかる、ただ、それに対する反応ができない、というケースもあるのだそうだ(本当かどうかはわからないし、医学的にどういうことなのかも知らないよ)。
これは辛そうだ。何たって、目の前でパンツを下ろして、お尻ペンペンされたって、何もできないのだ。あるいは、病床にヤンキーがやってきて、もの凄い間近からガンを飛ばされても、じっと我慢しているほかないのである。
そういう問題じゃあないか。
しかしまあ、仮にそういう状態になり得たとして、正気を保てるだろうか。わたしなら、あまりのもどかしさと退屈で、どうにかなってしまいそうだ。
植物人間は夢を見るのかどうかにも興味がわく。
夢を見たとして、それがいい夢、楽しい夢なら結構だが、悪夢だとしたら、地獄だ。
醒めない悪夢。細木数子の説教が永遠に終わらないようなものだ。しかも夢だからして、どんな理不尽なことだって起こりうる。
これは勘弁してほしい。しかし、誰が勘弁してくれるのかさえわからない。
例えば、今、この日記を読んでいるあなたも、実は長い夢を見ているのかもしれない。この日記は、夢の中に出てきている日記なのだ。
まあ、こういう発想は、胡蝶の夢の逸話のように、別段、珍しいわけではない。
たとえ夢であったとしても、おそらくは“正夢”なので、安心していただきたい。嫌な上司も、正夢として、しかるべき場所にちゃんと存在するのだ。ウヒヒヒヒ。