ピアノマン

 イギリスで「ピアノマン」が見つかってから、2カ月近くが経つ。
 正体が判明したという話は聞かないから、まだ“ミステリー”のままなのだろう。


 ご存じない方のために簡単に説明しておくと、今年4月、イギリスのシェッピー島で、海岸をさまよっている若い男性が保護された。ずぶ濡れのタキシード姿で、衣服のラベルは全て切り取られていた。


 男は病院に収容されたが、一言も発さず、人が近づくと部屋の隅に逃げ込む。
 何か身元の手がかりを、と、紙とペンを渡したら、グランドピアノの絵を描いた。
 病院の礼拝堂にあるグランドピアノの前に連れていくと、男は延々4時間に渡って、チャイコフスキーの「白鳥の湖」やビートルズの「アクロス・ザ・ユニバース」などを弾き続けた。
 そこでついたニックネームが「ピアノマン」――と、そういう話だ。


 ルックスも悪くない。記憶喪失の若い男性が怯え、ピアノの前に座ったときだけ、くつろいで演奏する。これはいかにも女性を中心に受けそうな話だ。
 イギリス発のニュースは世界を駆けめぐり、話題をさらった。


 ただ、どうも話ができすぎているというか、決まりすぎているようにも思う。


「まるで小説のよう」と言われるけれども、人物像や道具立て、ストーリーがきっちり揃いすぎている。気概のある小説家なら、同じプロットを思いついても、ちょっと書くのに躊躇するのではないか。
「手の込んだ売り込みでは」という声があるのも、よくわかる。


 弾いた曲がチャイコフスキーの「白鳥の湖」やビートルズの「アクロス・ザ・ユニバース」――これもよくできている。


 まあ、逆に「白鳥の湖」だから救われる、というところもある。
 例えば、グランドピアノの絵を描いたので、ピアノの前に連れていってみた。男は急にくつろいだ表情になり、延々4時間に渡って陽気に「ドレミの歌」を弾き続けた、というのでは、病院の担当者も大迷惑だろう。


 男に紙とペンを渡したとき、もし男が三味線の絵を描いたら、どうなっただろう。


 シャミセン・マン


 というニックネームがついたのか。ついでに、いいノドまで聞かせたりして。
 まあ、ある意味、ピアノマン以上の謎になると思うが、どっちかというと、お笑いニュースに近づいてしまうと思う。


 あるいは、等間隔に長い棒と曲線ばかりを描く。
 もしや、と、病院の担当者が電信柱のところに連れていくと、男は急にうれしそうな表情になってスルスルと昇り、電気工事を始めた。そこでついたニックネームが、


 電線マン


 というのは、ネタとしても、ひどすぎるか。


 こうなりゃ、ヤケだ。
 男が鞄と見積書と名刺の絵を描いた。
 その三つを渡すと、急にペコペコ、頭を下げ始めた。「おお、こいつは?!」と病院の人々が感動して、つけたニックネームが、


 営業マン


 そうして、今、世界は営業マンの噂で持ちきりなのだ。


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